だから、世界にさよならを


春と呼ぶにはまだ寒い頃、昼間だというには少し薄暗い街を綱吉は歩いていた。
ベージュのマフラーに顔を埋めながら、ジャケットのポケットに手を突っ込んで。

「白い光の中に、山並みはもえて」

最近、寒い講堂で延々と歌わせられることの多くなった合唱曲の頭が、ずっと綱吉の耳の奥から離れない。
今の時期なら、学生の少なからずがこの歌を歌っているだろう。

「“旅立ちの日に”ねぇ」

綱吉が呟くと、それに合わせて白い息がふわりと生まれて消えた。

寒い。

そう思いながらも、綱吉の足は歩みを止めることなく、周囲よりワンテンポ遅れたテンポを刻む。
雪が、空一面を覆う分厚い雲の重みに耐えかねたようにちらちらと降り始めた。

天気予報は、今年一番の大雪になると言っていた。

綱吉は降り始めた雪を視界の端に眺めやり、家出日和とは言い難い天候だなぁ、などと呑気に独語する。

「何をしとるんだ沢田」
「・・・了平、さん?」

思いもかけない人間に声をかけられるまで、その呑気な歩みが止まることはなかった。



ボンゴレ10世の守護者に選ばれたために、一足先にイタリアへ留学しているはずの男と肩を並べて、綱吉はコーンポタージュのプルタブを開けた。
柔らかな湯気とともに、甘く優しい香があたりに漂う。

「帰国してたなんて知りませんでした」

公園は雪のために静まりかえっており、外れの方にある東屋には二人以外の人影は見えない。
綱吉の言葉に、横でコーヒーに口を付けていた了平は顔を上げた。
約一年ぶりに見る守護者は、綱吉の記憶の中よりも大人びていて、琥珀の瞳が視線を定められずに虚空をさまよう。

そう言えば、笹川了平はあの学園のマドンナ笹川京子の兄なのだ。
その彼が、整った顔立ちをしていて何の不思議があるだろう。

「おう、知らせてなかったからな」
「知らせてくれれば、出迎えぐらいしましたよ?」
「思い立ったのが一昨日だからな」
「へぇ一昨日・・・って、それじゃ了平さん、今日、日本に着いたんですか?」
「さっきな」
「さっき!?」

さっき着いたという了平の全身を見回して、綱吉は恐らく彼に必要と思われる物の影も形もないことを確認して口を開いた。

「あのー・・・了平さん、旅行鞄的な何かはどこに」
「手ぶらだが?」
「どんだけフットワークが軽いんですか!?え、お財布とかパスポートとかは!!?」
「ここだ」

ぱしりと了平が叩いたのは、少しだけ膨らんだジーパンのポケット。
そこから顔を覗かせる、黒い丸みを帯びた小さな長方形の角は、確かにパスポートの角に類似していると言えなくもない。

ラフすぎる。

イタリアから日本へ、財布とパスポートだけ持ってやってくるなんて。

「近所のコンビニに行くんじゃないんですから・・・」

思わず頭を抱えたくなりながら、綱吉は溜息をついた。
そんな綱吉の様子を了平はしばらく眺めていたが、不意に手を伸ばして色素の薄い柔らかな髪を撫で始める。

「???」

ぐしゃぐしゃと、唐突に頭を大きな手に撫でられて、綱吉はしばらく不思議そうにその手の主を眺めていたが、やがて口元を緩ませて目を閉じた。
道路を行き交う車や人々の日常生活の微かな音に紛れて、雪の降り積もる音までは聞こえないが、確かにそこには空間を包む優しい気配が在った。

大きな手から伝わってくる温もりが、先ほどまでの妙に投げ遣りな思考回路を、陽光に照らされた雪のようにゆるゆると溶かしていく。

あぁ、

「気持ちーです、それ」

小さい頃に、父の大きな手や母の柔らかな手が与えてくれたものと同じ、心にするりと溶け込んで心を温めてくれる、優しい優しい温もり。
それは、周りに年少者が増えた一人っ子の綱吉には、久しく与えられていなかった類のものだった。

綱吉の言葉にふっと笑った了平の顔が、いつも見ていた京子の面差しと重なって、一瞬心臓が跳ねる。

思えば京子とも、中学を卒業すればほとんど完全に繋がりは途絶えてしまう。
大切にしていた初恋は、いつの間にか家族に向けるような無償の愛情に姿を変えていた。

気付いたときには、綱吉の頭におかれた手の動きはすでに止まっており、ただその温もりだけを伝えてくる。
綱吉は、わけもなく泣きたい気分になって、それを誤魔化すように言葉を紡いだ。

「どうして、日本に来たんです?」
「何となくだ」

まぁ、確かに、明確な目的があれば手ぶらで国際線を利用などしないだろう、普通。

「何となく、ですか」

了平の簡潔明瞭な言葉に笑って、琥珀色の瞳が伏せられた。
彼の、何を含むところもない答えが、綱吉を安心させる。
自分が弱っているのを、遠くイタリアから察知して飛んできたなんて、陳腐すぎて笑えない。

「どうしよう、俺、いま了平さんに会えて凄い嬉しい」
「そうか」

自分は恥ずかしげもなく何を言っているのか、と一瞬思いはしたが、綱吉の口は素直に内心を吐露していた。
それを受ける了平の瞳には、からかいの色など全く滲んでおらず、至極真面目に綱吉の言葉を受け取る。
その態度のなんと潔いことか!

「カッコいいなぁ、了平さんは」

大きな手を乗せたままの頭が、ゆっくりと伏せられた。
それに合わせて、するりとその手が色素の薄い髪から離れる。

「明後日は卒業だな」
「手、頭に乗せててください」
「む?あぁ」

白い息とともに紡がれた言葉は、頭を伏せているためにくぐもり、まるで泣いているかのような響きになっていた。
了平は特に何も考えず、言われるままに丸い頭に手を置きなおす。

「卒業したって、いきなり大人になるわけでも、世界が変わるわけでもないって、ちゃんとわかってるんです。でも俺は卒業するのが怖い。俺にとって卒業するってことは、そのまま世界が変わってしまうってことに近いから」

綱吉は、湯気の上がらなくなったコーンポタージュの缶を握り締めて、自分を嘲るように、罵るように、ゆっくりと言葉を吐き出していく。

中学を卒業して、イタリアに渡って、マフィアの資金援助で運営されるエリート校に通う。

それは、すでに定められた、そこから逸れることを許されぬ道だった。
そして同時に、マフィアのボスという闇の世界の椅子への着実な一歩でもあって。

未知への世界、それも深い闇に包まれた世界に身を投じることに、恐怖を覚えない方法があるのなら誰か教えて欲しい。

綱吉は、逃げようとする自分の足を押さえつけながら、無言でそう絶叫していたのかもしれない。
―――声なき声は、きっと誰の耳にも届かなかっただろうけれど。

「お前には、これからたくさんの人間が命を預かる義務がある。俺は、その義務に対して恐怖を抱かない人間なぞ信用できん。極限にな!」

そう言われながら、ぽんぽんと頭を軽く叩かれて、綱吉はふっと顔を上げた。
そこには、いつもと同じように強い意志を瞳に宿した了平の精悍な顔があって。

涙が零れ落ちたのは、寒さの所為で涙腺が壊れたからだと思うことにした。
そのままぎゅぅと広い胸に抱きしめられて、綱吉は何がなんだか分からないままに涙を流し続ける。

「昔、京子にもこうしていた」
「京子ちゃんに?」
「アイツも泣き虫だったからな」

お前は何で泣いているんだ?

暫く抱きしめられてから問われた問いに、涙で濡れた琥珀色の瞳がゆるゆると笑みを描いた。

「今の世界とお別れするのが、寂しかったんです」

でも、向こうの世界に貴方がいるのなら。

この温もりが俺に与えられるものだと言うのなら。

「俺、もっとちゃんとお別れできる気がします」




だから、世界にさよならを。


fin.


Back