せんせいといっしょ


「2aぶんの、マイナスb、プラマイ√b二乗、マイ、ナス、4、a、c ♪」

耳慣れた童話のリズムにのって、呪文のごとき数学の公式が歌われている。
二つのベッドに挟まれた勉強机に向かっているのは、今年から並盛高校に通い始めた沢田綱吉。
やっと声変わりの始まった彼の声は、声変わり特有のかすれ気味の声で、先ほどから公式の歌を歌いながら軽快にシャーペンを揺らしていた。
文字通り揺らしているだけなので、彼の前に広げられているノートには、問題の数式が書かれている以外は白地が広がっている。

不意に、綱吉が歌うのを止めて顔を上げた。

そして彼は、斜め後ろやや下方から胡乱な眼差しを感じて、そのままそちらに顔を向けると、少しだけ顔を引き攣らせた。

「り、リボーン・・・いつからそこに・・・」
「ん、10数分前からだな」
「えーっと、そう言う時は声をかけてくれるといいなぁ、なんて思ったり」
「気配で気付けこのダメツナが」

にっこりと、見るものの心を蕩かさんばかりの微笑とともに、子供用のベッドに座った子どもが底冷えのする声で綱吉の声に答える。
けれど、いつものようにスーツを纏った小さな子どもの手に黒光りする銃口は現れず、その代わりとでも言うように、綱吉の琥珀の瞳を哀れさと胡乱さの入り混じったリボーンの瞳が見つめた。

「な。何だよ」
「最近の日本の教育は、そんな奇怪な呪文を唱えさせるのか」
「奇怪言うな」

むぅっと、綱吉は眉間にしわを寄せて、子どもっぽくぶっきらぼうに文句を言いながらリボーンから視線を外す。
リボーンは、腰掛けたベッドからふわふわとした色素の薄い髪を見上げ、幼い唇に似合わぬ苦笑を閃かせた。

いつのまに、こんな風にしか甘えなくなったんだったか。

家庭教師として、生徒が教師に甘えた行動をとるのを看過すべきではないとも思ったが、リボーンはそれを敢えて無視して、年上の教え子の甘えに付き合ってやることにした。

「奇怪だな。そもそも音程が」
「音程なんて関係ないだろー?内容覚えてたら」
「覚えてても使えないと意味がねーぞダメツナ」

知ってたか、公式って使うためにあるんだぞ。

「〜〜〜っ分かってるよ!」

あからさまに馬鹿にされて、綱吉はくるりと椅子を回して体ごと後ろを向いた。
そこには、綱吉の予想に反して、どこか楽しげなリボーンが先ほどと同じように座っている。
いつもならば、こういう時リボーンは、滅多にお目にかかれないような愛らしい顔に、似合わぬ嘲笑を浮かべて綱吉を見ているはずなのに。

甘ったれんなよ、ボス。

そう言われて終わるはずなのに。

「リボーン?」
「何だ」

リボーンは、不審そうな綱吉の問いに少しだけ表情を緩めて応えてやった。
そして内心で、不思議そうにこちらを見ている教え子に苦笑する。


最近、ボンゴレ内部のゴタゴタや、それに乗じた他のファミリーからのちょっかいやらで、綱吉は高校とマフィアのいざこざとの間を行ったりきたりしていた。
ザンザスに勝利して、正式に次期ボンゴレ10世となってから、綱吉は常にリーダーとして振舞う必要が生じ、いつの間にかリボーンと二人きりの時にさえ、ダメツナと呼ばれる所以の片鱗を見せなくなりつつあった。
それはつまり、綱吉が歳相応の甘えから脱し始めたということで、リボーンの、家庭教師と言う立場から考えるならば喜ばしいことではあったのだが。

あの気弱で、一人っ子特有の甘えが抜けきれない“ダメツナ”も、小さな家庭教師はお気に入りだったのである。

だから、消えつつある歳相応の綱吉の名残を、3歳にして世界最強のヒットマンの名を冠する子どもは惜しんだのだ。

もっと我が儘を言えばいい。

そんなことは、ボンゴレ10世の家庭教師の名に懸けて、例えウォッカを一気飲みしても言おうとは思わないが。

「で、その歌の効果は問題に発揮されたのか」

まさかとは思うが、そんだけ恥ずかしげもなく歌っておいて、一問も解けてないなんてことはねーよな?

にこり、と誰もが心をほだされてしまうだろう美しい笑顔を浮かべる家庭教師に、綱吉の表情が今度こそこれ以上内ほどに引き攣った。

「―――・・・分かってて言ってるだろ、それ」
「当たり前だぞ、ダメツナ。お前のことで俺が分からねーことなんてあると思ってんのか」「え、何それ、俺らってどんな関系だよ」
「主にお前が法に触れてる関係だな」

リボーンのその言葉に噴出して、綱吉は椅子の背凭れから勢いよく身を起こした。

「待った、俺まだお前に手は出してないぞ!?」
「ダメツナだからな」
「むしろ、俺の貞操の危機を最近感じるんだけど!!?」
「ダメツナだからな」
「全てはダメツナに起因するのか」

最後は笑ってそう言って、綱吉は椅子から立ち上がると、少し低めに設計されている子供用のベッドに腰を下ろした。
華奢とはいえ、すでに170cmを超えた綱吉の体を受けて、ギシリとベッドの木枠が小さく軋む。
そのまま倒れ込むと、部屋の壁に頭をぶつけることは確実だったので、綱吉はずりずりと上体を壁際に寄せた。
そして、ベッドが接している壁を背凭れ代わりにして、成長したとはいえまだまだ小さなリボーンの体を伸ばした脚の上に抱き上げる。
綱吉の笑顔に、リボーンのギンっと人を射殺できそうな(比喩でなく)視線を送られたが、そこは無視して、緑の小さな友人が乗った帽子を横においた。

小さな家庭教師は決して言わないけれど、本当に珍しくなってしまった綱吉の甘えを許すのは、彼の中の罪悪感の所為。

「なぁ、リボーン。俺がさ、ダメツナじゃなくて、手のかからない、我が儘も言わない立派なボスになったら、お前はどっかに行っちゃうのか?」
「ないな、それは」
「・・・それはさ、どっかに行かないってことじゃなく、俺がダメツナじゃなくなることがないっていう風に聞こえるのは、俺の思考回路のせい?」

微妙な表情を浮かべた教え子の膝の上に乗って、リボーンはその問いに明確に答えず口元にニヒルな笑みを浮かべることで返す。

「・・・な、なんか複雑なんだけど」

柔らかな手触りの黒髪を優しく撫でながら、綱吉は脱力したように笑うと、ふぅと力を抜いて寄りかかっている壁に身を任せた。

「うーん、最近は脱ダメツナ酵素が働いて、それなりにやってきたつもりだったんだけど」
あぁ、でも、

綱吉は何かに思い至ったように、膝の上のリボーンを見遣る。

「リボーンと一緒にいるときは、安心して気が抜けることはあるかぁぁああ!?嘘です、いつでもアドレナリン全開です!!いつでも“逃走か闘争か”の準備は出来てますぅぅ!!!」

ジャコン、と鼻先に向けられた銃口に顔を青褪めさせて、綱吉は声をひっくり返すほどに慌てて諸手を挙げて降伏の意を表明した。
それを見て、リボーンの表情が、ごくわずかに緩んで(この変化は綱吉や奈々くらいにしかわからない)、小さな呟きが唇から零れる。

「まぁ、たまには生徒の愚痴を聞いてやるのも“せんせい”だからな」
「・・・何だそれ」

きょとん、とよく分かっていない様子の教え子の頭を銃口で軽く叩いて、リボーンは綱吉の膝から立ち上がった。
そして自分のベッドから綱吉のベッドへと移動し、まだ夕方だというのにベッドの壁際にもぐりこんでしまった。

「リボーン・・・?」

それを訝しんで綱吉が近寄れば、こちらに向けられた背中が無言で寝ろと告げていて。
綱吉はそこで、そう言えば最近マフィアのごたごたや学校の宿題で忙しくて、ゆっくり眠っていなかったことを思い出した。

言葉に出しては甘やかしてやれない。
それはリボーンの役目ではない。

―――綱吉が、無意識に甘えるのはリボーンにだけだったとしても。

そんな家庭教師の内心の葛藤に気付かないまま、綱吉は思い出したために襲ってきた眠気に素直に従って、すでに小さな子どもが潜り込んでいるベッドに横になった。
枕を小さな頭が占拠しているため、少し枕よりも下に頭を置いて、リボーンの呼吸にあわせて動く背広の背中に、触れるか触れないかの距離で額を寄せる。

すぐに寝息が聞こえてきて、リボーンはコロリと綱吉の方へ向き直った。
するとちょうど、綱吉の頭がリボーンの胸あたりにあって。

すいっと伸ばされた腕が撫でたのは、甘えなくなった哀れな教え子か、それともリボーンにだけ真実懐く綱吉か。


fin.




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