臆病者の恋


空には、闇をぽっかりと切り取ったかのごとく輝く、白い満月だけがあった。
確かにそこに存在しているであろう星々の光を、無情に掻き消して輝く月が。

「確かにね」

その月を背にして、テラスの鉄柵に身を預けた男は朴訥とした口調で口を開く。
青年の若草色の瞳は、静謐な光をたたえたままテラスの一点を見つめていた。

「俺は、菊が誰を選んでも、傍にいたかった」

手にした白刃を玩具のように軽々と弄びながら、青年はやけに冴え渡る思考回路が弾き出す言葉を、そのまま音として唇から紡いでいく。
この季節にしては暖かな夜風が、青年の言葉を緩やかに大気へと運んでいった。

「でも、やっぱり、ダメだった」

ひゅぅ、と、強い風が通り過ぎた後の静けさに、穏やかでありながら底冷えのする声がした。

「菊が、好き。だから―――誰にも渡さない」

ずっと、一緒がいい。




仰向けに転がって空を見上げれば、笑い出したくなるほどに美しい満月が、臆病者を嘲笑うように白々とした清廉な光を投げかけている。

愚か、だっただろうか。

奇妙に澄んだ意識でそんなことを考えながら、彼はふっと息を吐いた。

いや、きっと―――。

彼の胸中にある、身勝手な安堵感と満足感が、全ての答え。






貴族の頂点に立つ公爵家の、その名に恥じぬ荘厳な宮殿は、夜だというのに明々とした照明に彩られていた。
左右対称に造られた広大な庭園にすら明かりが灯され、精緻な細工の施された巨大なシャンデリアが照らす大広間では、盛装をした来賓たちが思い思いに華やかな談笑の花を咲かせている。
今日は、公爵家の掌中の珠、末弟の成人の儀とその騎士のお披露目が行われているのだ。

公爵家といえば、王家の血筋を引く貴族院の筆頭。
実質上、この国の実権を握って久しい名家。
誰もがその威光のお零れに預かろうと、地方貴族さえも祝辞を述べに公爵家の門を叩いた。

煌びやかな夜の祝賀会に移行して程なく、この祝賀会の当事者たる末弟とその騎士の姿は、会場から少し離れたテラスにあった。
公爵である兄が、人に酔いやすい弟を慮って席を外すことを許可したのである。

星の見えない夜空には、星々の輝きを掻き消すような満月が浮かんでいた。
そろそろ初夏を迎えようとしているからか、夜風はそれほど冷えたものでもなく、むしろ宴で火照った頬には心地よいもので。
本日めでたく成人した少年は、詰めていた息を吐いて肩の力を少しだけ抜きながら、テラスのベンチに腰を下ろした。

「本当に良かったんですかい?」

独特な東訛りで、仮面を被った男はそんな少年に声をかけた。
声をかけた少年―――菊は、式典用の正装にきっちりと包まれているために、多少息苦しそうな表情をしながら、ゆるゆると頷く。
不意に、仮面の男―――サディクの手が伸びてきて、少年の襟元を正した。

「ありがとうございます」
「いえ、菊さんも―――いや、マスターも成人なさるお歳になられたのかと思うと、なかなか感慨深いもんで」

仮面で隠されている男の表情は、孫を見る好々爺のごとき穏やかな慈愛に満ちていて、それを雰囲気で察した菊は意味もなく顔を赤らめた。

いつまで経っても、彼は菊を幼子のように扱う。
あまり喜ばしいことではないが、生まれた時から世話になっている乳母兄には、菊が何を言っても通じない。
年少の主人の頬に微かな不満の色を読み取って、サディクは指通りの良い真っ直ぐな黒絹の髪を慣れた手つきで撫でた。
何を言っても通じない、が、それを分かっていながら菊の唇は無意識のうちに抗議の言葉を発していた。

「サディクさん、私も今日から成人男子です。それ相応の扱いをしてください」
「おっと、こりゃ失礼」
「・・・」
「ほらほら、今日の主役がそんな顔してちゃいけませんぜ」
「誰のせいですか、もう」

ふぅ、と溜息をついて、菊は煌々と輝く月を見上げた。

美しい月だ。
夜色の衣装が、月の孤高の様を引き立てて、その孤独ゆえの美しさに寒気さえ覚えた。

独りは、美しいと思う。
菊は、それに憧れながら恐れている。
初めて“彼”に会ったとき強く惹かれたのは、“彼”が纏う気高くも寂寥を伴った独特の雰囲気を纏っていたからだ。
閉ざした瞼の奥で、大地色の髪に若草色の瞳をした青年の姿が、ゆっくりと像を結ぶ。

真っ白な月の光を全身に浴びながら、混じり気のない漆黒の瞳がゆるゆると閉ざされるのを、サディクは静かに見守っていた。
生まれたときからの付き合いで、仮面の騎士には、自分の主人の考えていることが手に取るように分かったから。
それに、彼も考えずにはいられなかった。
朴訥としていながら、研ぎ澄まされた孤独に身を沈めているような、自分の弟のことを。

きっと今頃、彼<アイツ>は。





『どうしたんですか?』

幼い声音で、大人びた言葉を発しながら、黒絹の髪を肩で切りそろえた子どもは不思議そうに首を傾げた。
漆黒の瞳が見つめる先には、薔薇の木々に隠れるように膝を抱えて蹲った、傷だらけの子ども。
緩やかに波打つ大地色の髪にはあちこち泥が飛び跳ねて、顔や手足もたくさんの擦り傷と泥で汚れている。
上質な絹の服も、破けていたり汚れていたりしていて。
そんな惨憺たる有様でありながら、見下ろしてくる子どもの瞳を見返す若草色の瞳は、きっ、と強い光を宿していた。

『うるさい、あっち行け』
『でも、そのままだといけません。それに―――』

独りは寂しいです。

そう言いながら伸ばされた小さな手を、同じくらい小さい手が力一杯振り払う。

『別に、なれてる』
『嘘、です。独りは、なれないって、兄様が言ってました』

ふいっとそっぽを向いた子どもを気にすることなく、もう一人の子どもは再び手を伸ばした。

『わたしも、今、ひとりぼっちなんです。だから』

一緒にいて欲しいんです。

蹲った子どもは、そんな利己的なことを無邪気に言ってくる子どもを前に、拒絶することも忘れてぽかんとしてしまった。
今まで、彼のことを厭う人間は掃いて捨てるほどいても、彼の傍にいたがる人間なんていなかった。
それなのに、この見た目からしてお育ちの良さそうな子どもは、自分の傍にいたいと言う。
そんなことを言われたのは、初めてだった。

だから。

再び伸ばされた手を、振り払わなかった。

それから、自邸の庭園で迷子になった弟を半狂乱で探し回っていた公爵に発見されるまで、二人の子どもは肩を並べて蹲っていた。



『菊さん、先日はうちの愚弟がご迷惑をおかけしたそうで』

幼い頃から傍にいる乳母兄の言葉に、宿題と格闘していた子どもは一瞬動きを止めて後ろの乳母兄を振り返る。

『サディクさんの弟さん、ですか?』
『はい、悪ガキに追い回されてるうちに本邸の方に迷い込んじまったとかで―――もちろん、きっちり叱っておきましたけど』 
『―――あ、あの子はサディクさんの弟さんだったんですか?って、彼が悪いわけでもないのに叱るなんて・・・怪我の手当ては?』
『大丈夫でしょう、俺の弟は俺に似て頑丈ですからね』

公爵家お抱えの騎士団の宿舎は、広大な屋敷の離れにある。
そこには公爵家に仕える騎士をはじめ、その子弟達も暮らしていた。
もちろん、本邸のある区域へ入ることが許されているのは、騎士を拝命している人間だけだったが。
菊も、何回か、離れの訓練場で騎士見習いとして訓練に励む子ども達の姿を見たことがあった。
そこまで考えたところで、菊はきょとんと首を傾げた。
サディクの家は、騎士団を束ねる騎士団長の家系である。
だからこそ、公爵家の乳母という大役をも与えられてきた。
そのサディクの弟ならば、当然、菊も顔見知りであるはずである。
けれど、菊は今までそんな話を聞いたこともなければ、その弟の姿を見たこともなかった。

首を傾げる子どもを前に、サディクの鳶色の目が珍しく戸惑いに揺れた。
しかし、真っ直ぐに向けられる黒真珠の視線に耐えかねたらしく、溜息をつきながら目をそらす。
そして暫く何かを考えるような仕草をした後、話をすりかえるために口を開いた。

『菊さんは、うちの愚弟が気に入ったんで?』
『―――?はい、嫌いではないです』
『そうですかい・・・それじゃあ』

今度連れて来やしょう。
乳母兄の唐突な提案を訝しむことなく、菊は新しい友人が出来ることを素直に喜んだ。
まだ知らなかったのだ。
過保護なほどに甘い兄から愛され、周囲の人間から慈しまれて育てられた菊は。

階級社会の生み出した歪んだ暗闇を、その暗闇に自分の意思に関わらず沈まざるを得ない人間がいることを。

次の日、サディクに連れられてやって来たヘラクレスと菊は、歳が近いせいもあってか、あっという間に仲良くなった。
互いに自分に無いものを敏感に感じ取ったらしく、磁石が引き合うように共にいることが自然になっていった。
むしろ、傍にいないと違和感を覚えるほどに。

やがて長じるにつれ、菊はヘラクレスの持つ独特の雰囲気の背景を悟るようになった。

妾腹。
庶子。
騎士の名家の子どもでありながら、騎士になれぬ、その所以。

朴訥としていて、穏やかで、けれど、優しさの奥に深い孤独の暗闇を抱え込んだヘラクレス。
彼の出自が、菊の愛して止まぬそんな独特の雰囲気を生み出したのなら。

なんと皮肉なことか。
何も知らずにヘラクレスの纏う雰囲気に憧れていた自分を、菊は心底恥じた。
けれど、そんな菊を、ヘラクレスはいつもの物静かな笑みを浮かべて抱きしめた。

『別に、菊が気に入ってくれているなら、何だって嬉しい。俺は、菊がいてくれれば、それでいい』

そんな風に言ってくれるヘラクレスを、菊は性別や常識などといった枠組みを超えて愛していた。

だから、生涯、自分の騎士を持つつもりは無かった。
公爵家の当主たる兄がすでに騎士を持っていたし、家督を継ぐ予定の無い菊が無理をして自分の騎士を持つ必要も無かったからだ。
なにより、菊にとっての騎士は―――騎士になる資格を持たぬヘラクレスだったからである。

しかし、騎士を持たぬことは許されなかった。
当主の選んだ騎士が公爵家騎士団の人間ではなかったために、騎士団長になることができなかったのだ。
それはつまり、次代の騎士団長―――サディクを、菊が自分の騎士としなくてはならないということでもあって。

家のために生きるのが、その恩恵を受けて育った者の義務。
その義務の前に、貴族たる菊は膝を屈するしかなかった。
―――それが、ヘラクレスを再び孤独の闇に叩き落す行為と知っていても。

貴族の傍らに立つ騎士は、特別な意味を持った。
常に主人に寄り添い、命に代えても主人を守り、主人の死に際してはそれに殉じる―――魂の伴侶。
子を成すための伴侶以上の、強い絆で結ばれた相手。




「私は、臆病者です」

パチリと瞳を開けた菊は、独り言として言葉を紡いだ。
その傍らで、サディクは何も言わずに独り言めいた主人の懺悔の続きを待つ。

「闘おうと思えば、抗おうと思えば、きっとできたはずなのに」

貴族という免罪符に、伝統と言う強い流れに、逆らわずに流されてしまった。

ヘラクレスを、本当に大切に思っていたというのに。
だからと言って、ヘラクレスと傍にいたいからと言って、どうすれば良いのか分からなかった。
ヘラクレスならば、きっと分かってくれるなんて―――傲慢な言い訳をした。

「・・・酷い人、ですね」

独語する主人を鳶色の瞳に映して、サディクは皮肉げに笑いながら呟いた。
そして、そっと壊れ物を扱うかのように菊の頤を持ち上げて自分の方に向けさせると、素早くその唇を奪う。

「―――んっ、ふっぅ・・・っ!!!」

どん、と、菊の年齢の割りに華奢な手が、サディクの厚い胸板を力一杯叩いた。
それを全く意に介さずに、口内に侵入した騎士の舌は、無遠慮に菊を貪っていく。

ガリッ。

「―――っと」
「な、何をするんですか!!!」

口内に血の味を残して離れた騎士を睨みつけて、菊の漆黒の瞳に戸惑いと怒りの焔が燃え上がった。
それを無感動に見遣りながら、仮面に隠されていない男の口元が自嘲気味に笑みを形作る。
今まで見たことのないその表情に、菊は口をつぐんだ。

「いや、俺のほうが、多分あの愚弟よりも貴方を長く愛してきたでしょう。―――全く、気付いては貰えやせんでしたけどね」
「え・・・」

全く予想外だった、という主人の顔を見て、サディクは軽く肩をすくめるといつもの食えない笑みを浮かべて白亜の石畳に跪く。

「申し訳ありません、マスター。分不相応の真似をいたしました、処分は如何様にも」
「・・・暫く、一人に、して―――ください」
「はっ」

顔を伏せて、か細い声でそう命じた主人の言葉に短く応えて、騎士はテラスを離れた。
テラスの下の庭園から、それを見上げていた若草色の瞳に気付くことなく。




空には、闇をぽっかりと切り取ったかのごとく輝く、白い満月だけがあった。
確かにそこに存在しているであろう星々の光を、無情に掻き消して輝く月が。

「確かにね」

その月を背にして、テラスの鉄柵に身を預けた男は朴訥とした口調で口を開く。
青年の若草色の瞳は、静謐な光をたたえたままテラスの一点を見つめていた。

「俺は、菊が誰を選んでも、傍にいたかった」

手にした白刃を玩具のように軽々と弄びながら、青年はやけに冴え渡る思考回路が弾き出す言葉を、そのまま音として唇から紡いでいく。
この季節にしては暖かな夜風が、青年の言葉を緩やかに大気へと運んでいった。

「でも、やっぱり、ダメだった」

ひゅぅ、と、強い風が通り過ぎた後の静けさに、穏やかでありながら底冷えのする声がした。

「菊が、好き。だから―――誰にも渡さない」

ずっと、一緒がいい。

音も無く現れて、いつもは手にしない抜き身の白刃を手に、淡々と言葉を紡いでいたヘラクレスが、次の瞬間何をしたのか。
ベンチに座っていた菊は、自分の腹部を貫いた灼熱の痛みが脳髄を駆け巡るまで、全く分からなかった。

「あ・・・」
「一緒に、いよう?」

腹部を貫通した刃が抜き去られた反動で、華奢な体がベンチから転げ落ちて白亜の床に転がる。

仰向けに転がって空を見上げれば、笑い出したくなるほどに美しい満月が、臆病者を嘲笑うように白々とした清廉な光を投げかけている。

愚か、だっただろうか。

奇妙に澄んだ意識でそんなことを考えながら、彼はふっと息を吐いた。

いや、きっと―――。

彼の胸中にある、身勝手な安堵感と満足感が、全ての答え。
本当は、こうされることを待っていたのかもしれない。

するりと抱き上げられた、愛しい男の腕の中で、菊はいっそ艶やかとも言えるほどの笑みを浮かべて口付けた。
舌に感じた血の味は、仮面の騎士のものだったのか、臆病者のものだったのか、それとも―――。

「愛してます」
「うん、俺も」

他には、何も要らない。
他は、すべて、邪魔なだけ。





Fin.


えっと、はじめに・・・璃夜、ごめん、上手く落ちなかったorz
そしてあんまりドロドロしてないです↓↓↓
あ、ギリシャさんは遅効性の致死薬飲んでます。心中する気満々です。

ということで、説明不足もいいところですが、「希日←土」、「ドロドロ」、「死ネタ」、のリクエストssを上げさせていただきます。


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