愛おしい日々


今年の冬は、底冷えのする寒さを伴って、外を歩く人間の首や足元を撫で上げていた。
そんな冬の手から逃れるように、人々の足どりは早く、わき目も振らずに目的地へと歩いていく。

「さ、寒い・・・」

講義を終えて帰る菊も、例に漏れず首を覆うマフラーに顔を埋めながら、足早に通りを歩いてアパートメントへ向かっていた。
右手は鞄を持ったまま固まってしまったようで、左はポケットのカイロを握り締めたまま微動だにしない。
運動靴の中の爪先も、冷え切って痛いくらいだった。

今日は、彼の同居人の方が先に授業を終えているので、シェアしている部屋は既に暖まっているはずである。
いやむしろ、暖まっていなかったら、そこは自分の家ではない。
凍り始めた頭でくだらないことを考えながら、角を曲がって、見慣れた通りを歩く。
やがて見えてきた、モスグリーンの壁に白枠の窓、黒い屋根というオーソドックスな二階建てのアパートメントには、すでに電気の光が灯っていた。

―――しかし。

「何で寒いんですか・・・!!」

絶望した、この部屋の寒さに絶望した・・・!!
階段を昇って居間に入った瞬間、自分を出迎えた外気温とそれほど変わらぬ空気に、菊は弱弱しくも力の限り叫んだ。
しかし、居間のソファに座って優雅に本を読んでいた彼の同居人は、菊の死にそうな悲鳴を予想していたのか、端整な眉を跳ね上げただけで手元から視線を外すことさえしない。
それを見て、菊は無言で立ち上がると、すたすたと同居人の背後へ向かった。

「・・・っ!菊!何をするっ!!」
「あーヴァッシュさんの首・・いや、むしろ背中?・・・まあ、どっちでも良いですけど。暖かいですねぇ」

ズボッと氷のような手を、ハイネックの首もとから突っ込まれて、ヴァッシュは滅多にないほど驚いた顔をしてから憮然とした面持ちで背後を睨む。
大学の同級生が見たら、一瞬で固まってしまいそうなその不機嫌な形相も、ルームシェアをする程の仲である菊にはまったく意味がなく、逆に不適に笑い返されてしまったが。
ヴァッシュの方も、菊には自分の睨みが効かないことは承知しているので、すぐに諦めたように溜息をついて本を閉じた。

「コーヒーを淹れるのである。飲むか?」
「・・・もう少し後で良いです。今、暖かいもの触ったら火傷しそうなので」

ヴァッシュさんの体温で十分です。

思ったままのことを言った後、菊は自分の発言が失言であったことに思い至ったのだが、既に言葉は音となってヴァッシュの鼓膜を揺らしていた。
冴え冴えとした美しさを誇る同居人の顔に、至極愉快そうな笑みが浮かんだのを見て、菊はヴァッシュの背中に入れていた手を引き抜こうとしたが、がっちりと長い指をした手で引きとめられる。

「・・・ほう」
「いや、今のは忘れてください!寒さで頭が凍ってたんです!!大体、なんでこの部屋こんなに寒いんですか!」
「我輩も、ついさっき帰って来たからな。しかも我が家の暖房は年代ものだ、暖まるには時間がかかるのをお前も知っているはずだが?」
「〜〜〜った、確かにそうですけれども・・・っわ!」

底意地の悪そうな笑みを浮かべて、上半身を捻るように振り返ったヴァッシュは、菊の両脇に手を入れて掬い上げるように自分の腕におさめてしまった。
もちろん、菊が同年代に比べて華奢だといっても、一応成人男性の体格はしているので、一度で納まりよく抱き締めることはできなかったが。
きちんと抱えなおして自分の膝の間に菊をおさめると、ヴァッシュは満足げに息を吐いてまだ冷えている同居人の頭に顎を乗せる。
一方の菊は、自分の脇の下を通って胸の前で組まれている腕が、残念ながら自分では外せないことを理解して体の力を抜いた。

口惜しいことに、暖かかったのだから仕方ない。

横目で窓の外を見れば、灰色の空からいつの間にか雪が降っていて、尚のこと今の状況が暖かく感じられる。
ソファでこの体勢になってしまうと、ヴァッシュは大抵目を閉じてしまい、満足するまで菊を離すことはない。
無理に腕の拘束から逃れようとすると、不機嫌になって手酷い仕返しを食らうのも既に決まりきったコースだった。
それを、身をもって知っている菊は、腕の中で座り心地良く体勢を整える以外は大人しくヴァッシュにもたれかかって、背中に感じる体温や心音、ヴァッシュのかすかな呼吸音や古い暖房がたてる音に耳を済ませている。
けれど、やがてそれにも飽きてきて、菊はソファに投げ出された自分の鞄を引き寄せると、課題の資料を引っ張り出して読み始めた。

日本と比べて、大学で出される課題の量は多い。
まるで高校のようだ、と言って、自分の高校時代の話をこちらの友人に話すと、日本人は学生の頃から真面目なのかと驚かれた。
けれど、大学に入ってからは、勉強する人間としない人間に二極化するから、最終的にはあまり変わらないだろうが。

しばらく文字を追っていたが、思考回路が読む速度についていかなくなった。
暖かい、ということもある。
それ以上に、何だかんだ言っても慣れた同居人の腕の中は安心するもので。
そんな菊の様子に気付いたのか、羨ましいほどに落ち着いたヴァッシュの声が直接身体に響いた。

「眠くなったのであるか?」

いつもよりも、優しく穏やかな囁きに、菊の本能は確かに甘やかす響きを感じ取って、無意識のうちに頬が緩む。
ヴァッシュの鋭い目つきと、自分にも他人にも厳しく、はっきりと物を言う性格は、日本ほどではないとは言え敬遠されがちなものだ。
もちろん、ヴァッシュの発言には裏打ちされた根拠があって、正論も多い。
しかし、だからこそ、という側面があるのも確かだった。
外見は、厳しい目つきさえしなければ、かなり特上の部類に入るから、女生徒からは怖がられながらもある程度不動の人気がある。
直接アタックをかける強者は、菊の知る限りは1年に1人2人程度だけれども。
そんなヴァッシュが、叱咤しながらも、唯一甘やかすのが自分だという事実は、菊のささやかな優越感を満足させるには十分だった。(この場合ヴァッシュの妹は、問題外だ。あれは甘やかすとかそういう次元を超えている)。

「菊、寝室に行くか?」

とろとろと意識が曖昧になるのに合わせて、どんどん身体の力が抜けていく。
もう眠ってしまったか、とヴァッシュが体勢を変えて抱き上げようとすると、その動きを制するように菊の腕がヴァッシュの背中に回された。

「菊?」
「もう少し・・・」

あっちは寒いです。
良い具合に寝惚けているらしい菊が、普段ならば絶対に見せないであろう甘えた仕草に、ヴァッシュは自分の顔がだらしなく緩むのを自覚する。
温和なくせに人見知りが激しい菊の無防備に安心しきった様子は、ヴァッシュのお気に入りなので、多少寝るには苦しい体勢だが、それを許容して余りある幸福感に再びソファに身体を沈めた。
ヴァッシュの身体に腕を回したまま眠り始めた菊の身体を、どうにか膝に頭をのせる形でソファに伸ばして、指どおりの良い髪を撫でる。
それが気持ちよかったらしく、菊がもぞもぞと動いて、ヴァッシュの腹に擦り寄るように丸くなった。

「・・・」

うっかり、可愛いな、などと口走りかけて、ヴァッシュは掌で自分の口を押さえると天井を見上げた。

勘弁して貰いたい。
これ以上、自分らしくなくなりたくはないというのに。

「菊」

自分の声とは思えない、低く甘い声で名前を呼べば、夢の中でさえヴァッシュの声を聴いているのか、菊の幼い容貌が嬉しそうに緩む。
それが何よりも明確に菊の内心を物語っていて、ヴァッシュは込み上げてくる何かを耐えるように、象牙色の額にキスをした。
やがてその口付けは、額から瞼、鼻先から頬、最後に唇に降りていって、その感覚に菊がもぞりと動いた。
だが、目覚めるほどのものではなかったらしく、すぐに大人しくなる。

外の雪は、夕闇でもわかるほどに白く、勢いは日が暮れる前よりも更に強く降っていて、家の前の通りを白く塗り替えていることが容易に想像できた。
古めかしい音を立てる暖房も、ようやく本調子になってきたのか、部屋は随分と暖かくなっている。
まだ、ヴァッシュも課題の本を読み終えてなかったのだが、机に置いた本をとるためには膝の上で眠っている菊を起こさねばならない。
ならば後で良い、と考えて、彼もまたソファに身体を預けると、背凭れにかけてあった毛布を外して、まだコートを着たままの菊にかけて目を閉じた。

他人の温もりが心地よいなんて、菊に出会うまで思ったこともなかった。

そんな風に思いながら。

雪は止まずに降り続いている。
明日もきっと、寒い一日になるのだろう。

それすらも、愛おしい日々。




Fin.


ラブラブ=くっ付いてベタベタ、だと思っている単純思考な嘉月です。
瑞西様が別人だよーぬほんちゃんもニセモノだよー、な感じで実に申し訳ない。
何でも良いですが、手を突っ込むのはともかく、突っ込まれるのはイヤなものですよねw



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