汝、希求せよ


神殿の入り口に佇んでいたのは、手に抜き身の剣を持った、30の坂をいくつか下った男。

夕方に会ったときと変わらぬ服装、見慣れた髪型、見慣れた顔。
けれど―――その瞳は。

闇に輝く金色の瞳。
尋常ならざる、ぎらついた、獰猛な瞳。

完全に正気の失せた瞳が、愉快そうに弧を描く。

煌くのは、よく手入れされた白刃。

『彼があなた方の相手がしたいと言って聞かないので、この場は彼に譲らせていただきます。では、御機嫌よう』

凍りついた表情の綱吉を見据えて、骸は再び典雅に一礼すると、闇に消えた。
それと同時に、カラカラ・・・と、抜き身の剣が地面を擦って移動する音が響く。

グルルルルッ

ただ愉悦の光だけを瞳に宿した叔父が、恐ろしいほどに殺気立つ獣へと臆することなく突っ込んだ。
獣は軽やかな身のこなしでそれを避け、綱吉の襟を加えて大きく跳躍する。
突然振り回されて、呆然としていた綱吉も今の状況を理解すべく顔を上げた。

一体何が起きている?
叔父に何があった?

・・・本当はわかっている。

叔父の目は、鳶色だった。
それが金色に変わるとき、七氏族の人間達は―――発狂した。

いつもピンと伸ばされていた叔父の背は、まるで酔漢のようにぐにゃぐにゃと一定に定まらず、そのくせこっちに真っ直ぐと殺気が向けられており、切り込むべき隙が見出せない。

『叔父さん、叔父さん!!』

自分を守るように寄り添う獣の長い毛を掴んで、現実を拒絶する綱吉の悲痛な声が教会に響き渡った。
けれど、その声に答える厳しくも暖かかった声は聞こえない。
ただ、至極楽しそうにステップを踏んで間合いをはかる、ブーツの踵が地面を打つ音だけが静寂を乱している。

タンッ。

軽やかな音がした次の瞬間には、尋常ならざる速度で叔父の切っ先がこちらへ向かってきた。
横に転がってその切っ先から逃れても、綱吉の思考は現在の状況を否定しようとしている。
だから、勢いを付けすぎたために少しだけバランスを崩した叔父に、リボーンが牙を向くのを必死に制した。

邪魔をするな。

そう言いたげな、イラついた漆黒の瞳に焦燥感を抱きながら、綱吉はすでに態勢を整えてこちらを見ている叔父を見た。

厳しい人だった。
息子にも、綱吉にも、自身にも、厳しい人だった
けれど―――

確かに、愛してくれた。
何よりも、慈しんで育ててくれた。

誇り高い、一族の長だった。

発狂した人間は、死ぬまで元には戻らない。
今までの経験でそれを熟知している綱吉は、一瞬目を閉じた後、静かに自分の剣の柄に手をかけた。

『あなたは、こんなことを望む人間じゃない。それは、俺だってよく知っている。だってあなたは―――俺を、育ててくれた人だから』

唇がわなないて、綱吉の言葉は不安定な響きを持っていたけれど、彼の心情を何よりも雄弁に物語っている。

『だから、俺が・・・―――俺の、相手をしてください』

そう言い終わる頃には、綱吉の足も叔父の足も地面を力強く蹴って互いの切っ先を叩き込んでいた。
金属と金属がぶつかり合う、甲高い悲鳴のような音が神殿に響き渡る。

刃先を受け止めたときに手にかかる重みが、叔父が本気だということを何よりも明確に綱吉へ伝えてきた。
もともと訓練用で鍛えの甘い綱吉の剣は、激しい打ち合いのために刃こぼれが生じ始めている。
それを認めて、綱吉は地面を蹴って右に飛び、勢いを殺しきれなかった叔父の切っ先がぶれたのを確認しながら、右上から剣を斜めに振り下ろした。
切っ先は確実に叔父の左腕を仕留める軌跡を描いたが、それより一瞬早く―――人間の反射神経速度からは考えられない速さで叔父の手元が翻り、逆手に持たれた剣が顔の横を掠める。
間一髪で避けた白刃は、ハラハラと綱吉の色素の薄い髪を数本切って通り過ぎていった。
さらに予想外の反撃で不安定な姿勢になったところを、叔父の容赦ない斬撃が襲う。
そこにいたって、今まで綱吉の意思を酌んで静観していた黒い獣が牙を剥いた。

闇に溶け、暗がりを滑るように移動してきたリボーンは、剣圧に負けてバランスを崩した綱吉と、それに切りかかる男の間に割って入り男の身体を鋭い爪で突き飛ばす。
その攻撃で、叔父の胸元から赤い花が咲いた。
けれど、通常なら致命的であるはずの傷さえ、彼の凶行の抑止力にはなり得なかったらしい。
石の床に加減なく叩きつけられたというのに、大きく抉られた胸元からは止め処なく血が流れ出ているというのに、叔父は何事もなかったかのように立ち上がる。

亡者。

彼は、生きながらに死んでいた。

そう思ったときには、綱吉の足が地面から離れ一足飛びに叔父の懐に飛び込んだ。
むっとする血の匂いが一瞬だけ彼の鼻先を掠め、叔父の切っ先がわき腹を薙いだが、それに構うことなく剣先を男の喉に突き立てる。
重い手ごたえがして、叔父の口から奇妙な音とともに血があふれてきた。
手にした柄にも、赤い流れが幾筋も伝っていく。

ひゅーひゅー。

気道を遮断された叔父の口からは、空気のせき止められたような掠れた音が漏れた。
その口から溢れた血が綱吉の髪や顔を滴って、白い石畳に血溜まりを作っていく。
自分のわき腹からも、脈拍に合わせて血液が流れていくのがわかったけれど、綱吉は叔父の喉を貫いたまま―――不自然に背を反り返らせた姿勢から動けずにいた。

薄暗がりの中でも、わかる。

叔父の瞳の色が。

叔父の瞳の光が。

綱吉のよく知るものへ、変わっていくのが。

『叔父、さん』

涙でぐしゃぐしゃになった甥の顔を見て、喉から剣を生やした男は、確かに笑った。
詫びるように、褒めるように、許すように、笑った。

そしてゆっくりと瞼を閉じ―――静かに事切れた。

綱吉は、脱力した叔父の身体に倒されるように地面にへたり込んで、流れる涙をそのままに虚空を見つめる。

思考が完全に停止していた。

叔父から流れ出す血は、今や綱吉の服を完全に染め上げて。

身体が鉛のように重い。

リボーンは、そんな放心状態の綱吉を唐突に銜えて己の背に上げると、音もなく神殿の丘から駆け下りていく。
状況についていけなかった少年は、振り落とされないように必死で獣の背にしがみ付きながら、何が起こっているのかと瞬きを数回して抗議の声を上げた。

『リボーン、止まれ!叔父さんをあのままには―――!!』

周りの景色が見えないほどの速度で走っているため、吹き付けてくる風もかなり強く、大声を張り上げても風にかき消されていく。
しかも、わき腹の傷は微かの振動でもかなりの痛みを訴えていた。
だが、リボーンはそんな綱吉の言葉を無視して、猛然と闇夜の丘を下りきり、勢いを殺すことなく少年の家の方角へ走り続ける。

“―――今や、英雄王との繋がりは途絶え、七氏族も貴方を残すのみ”

軽薄な笑みを浮かべた男の言葉が、不意に綱吉の脳裏を掠めた。
あの口調は、まるで。

『―――っ!!』

だから、なのか。
この黒い獣が、これほどまでに急いているのは。

『隼人、京子ちゃん―――』




たどり着いた家は、先ほどと全く同じ佇まいでそこにあるというのに、綱吉にとっては全てが変わって見えた。
薄汚れた煉瓦の壁、立て付けの悪い木の扉、夏に叔父と一緒に葺き替えたばかりの屋根。
もう隼人の寝る時刻は過ぎている。
だから、家の明かりが落とされて、家全体がひっそりとした空気に包まれていても、何の不思議もない。

それなのに、どうしてこうも悪寒がするのだろうか。

先ほどから断続的に与えられる過度の精神的負荷によって、綱吉の精神の糸はキリキリと張り詰められ、これ以上の衝撃に備えるような余裕はなかった。
強烈な斬撃を受け続けた腕の痛みや、わき腹から脳へと伝えられる痛みが、身体的にも限界が近いことを告げている。

それでも、ここで怯むわけにはかない。

綱吉には、一族の長として、家族を守る義務がある。

何事もなく、二人の寝息が聞こえてくることを願いながら、少年の足が入り口から居間を通り階段を昇ったところで、彼の耳は異音を捉えた。

押し殺した息遣い、苦痛を耐える微かな呻き、しんとした闇の中に悶えている気配。

それを聞いた途端、綱吉は残りの階段を飛ばして二階の廊下へと駆け上がった。
暗さに慣れた彼の瞳が、暗闇の廊下に蹲る人影を認めて驚きに開かれる。

片手にはナイフを。
もう一方の手は、ナイフを持つ手を押さえこんで。
何かの衝動に耐えるように、身体を丸め込んで床に倒れ伏す、幼馴染みの少女。

京子の茶色の瞳が、闇に輝く灯火のように金色に明滅するのを見て、綱吉は彼女に何が起きているのかを知る。

『京子ちゃん―――!!』

悲鳴のような声を上げて、少年は少女の傍らに膝をついた。

『ツっく、ん、止・・・め、て、手、が勝手・・・にっ』

綱吉の姿を認めて、京子の強張った表情が少しだけ緩んだが、すぐに苦悶の表情になって絶え絶えに言葉を紡いだ。

京子のぼやけた視界には、顔や髪を黒く汚した綱吉の悲壮な貌が。
彼女の薄れいく意識には、こみ上げてくる殺害の衝動と、それを抑える理性のせめぎあいだけがあった。

殺せ殺せ殺せ殺せ殺セ殺セコロセコロセコロセコロセ―――!

赤い、血の色をした凶暴な衝動が、彼女の右手を介して彼女の宝物を害そうとしている。
そんなことは許せない。
綱吉は、隼人は、京子にとって、何にも代えがたい大切な家族だ。
その家族を、殺すなんて。
たとえ自分が死ぬことになろうとも、絶対にさせはしない。

しかし、それを押さえるべき理性は徐々に徐々に磨耗して、それと同じように京子の自我も食われていく。
必死に右手を押さえていた左手の力が、彼女の意に反して徐々に弱まっていった。

ヒュッ

唐突に振りかざされた白刃を間一髪避けて、綱吉は京子から距離を置く。
叔父のときよりも、京子からは彼女の意思を感じられた。
彼女の、全身全霊の拒絶と、それを上回ろうとする凶暴な何か。

『来ちゃ、だ、め・・・は、や、く』

殺 し て 。

声にならない京子の言葉が、綱吉の鼓膜を震わせて脳へ音を届ける。

もう、自分は戻れない。
あと幾許かの後には、この赤い衝動に飲み込まれて、ただの狂人に成り果てるだろう。
そんな奇妙な確信があった。

だから。
酷な事を承知で。

心優しい少年に言った。

殺 せ と。

でなければ、私が貴方を殺してしまう。

『ツっくん、おね、が、い』
『京子ちゃん』
『と、め・・・て』

その言葉を最後に、京子の自我は血色に染まる闇の中に飲み込まれた。

闇に輝く金色の瞳。
尋常ならざる、ぎらついた、獰猛な瞳。

完全に正気の失せた瞳が、愉快そうに弧を描く。

煌くのは、よく手入れされた白刃。

その白刃が閃いた先には―――

『隼人!!!!』

綱吉の絶叫が上がる。
物音に起き出した幼い少年が、部屋から暗闇の廊下へと顔を覗かせていた。
半分夢の中にいる状態なのだろう、隼人は振り下ろされるナイフに気付くこともなく寝惚け眼で綱吉のほうを見ている。

その瞬間、確かに綱吉は無心だった。

ただ、隼人を守らなければならないと、それだけを、考えていた。

気付いたときには、幼馴染みの少女を、何よりも大切だった家族を、叔父を絶命させた剣で刺し貫いていた。

少女の胸に、赤い花が咲く。

『―――ぁり、がとう・・・ごめん、ね、ツっくん・・・』

あっけなく綱吉の腕に倒れ込んできた京子は―――詫びるように、褒めるように、許すように、笑った。

叔父と同じように。

パタパタと、綱吉の涙が京子の頬を濡らす頃には、少女は死んでいた。
そして、何が起きているのかを把握した幼い隼人の甲高い悲鳴が上がった。

『人殺し―――!!!!!!』

それと時を同じくして、幾つもの松明の光が家を取り囲んだ。
すぐに荒々しい足音が家の中に踏み入ってきて、茫然自失状態の綱吉を手荒く地面に羽交い絞めにする。
あの男が、周到に用意させていた警護団の一団だった。
その男達が、警護団の服装をしているのをぼんやりと見ながら、このまま捕まって処刑されるのも良いかもしれないと綱吉は思う

叔父も
京子も

自分なんかが殺していい人間じゃない。

それなのに、自分は―――

“寝言は寝てから言いやがれダメツナ。お前は俺のもんだ、お前に死を選ぶ権利なんかねーんだぞ”

リボーンの不機嫌そうな声と、夜を圧するような猛々しい遠吠えが響き渡ったのは、殆ど同時だった。
間を置かずに、廊下の闇の中から音もなく大きな黒い獣が滑り出てきた。

狗でも、狐でも、狼でもない、漆黒の毛並みの獣。
白銀の獣と似て非なる、黒銀の獣。

それを認めたところで、綱吉の張り詰めていた精神が限界を迎え、意識がフェードアウトした。







嘉月の思考回路もフェードアウトしました。。。orz


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