無意味を成した境界線 「きょうや」 花のように愛らしい唇から零れ落ちた言葉が、透明な空気をかすかに振動させて恭弥の耳にじわりと沁みこむ。きょうや、きょうや。穏やかな声音は、ただただ一人の少年に向けられたもの。彼の感情のすべてが「今」という時間自分だけに向けられていると思うと、心にじんわりとある感情が広がった。それはあまり清いものではなく、仄暗い独占欲を満たす満足感。 「きょうや」 やわらかな声が、尚も自分を呼び続ける。まるで、求めるように。 思わず唇がゆるんだ。けれど聞こえぬふりをして寝返りを打つと、今度はすこし苛立ったように綱吉は名前を呼んだ。 「恭弥。起きて」 今までの声がまろい飴玉だとすると、今度の声は多少年を重ねた年相応のもの。子供のように無邪気ではなく、けれど大人にもなりきれていないそれ。ひどく、危うい脆い硝子を思わせた。嫌な予感がざわりと胸を過ぎるのと同時に、それは前触れもなくぱりんと割れた。 「恭弥の、……ばかっ!」 いきなり涙声で叫んだかと思うと、ふっと隣にあった気配が立ち上がった。ベッドから離れた綱吉は、双子の兄のことなど視界に入れず部屋を去ろうとくるりと踵を返した。もう知らない、と恨みの篭った言葉が吐き出された瞬間、背中に暖かいものがぶつかる。 「・・・なんで怒ってるの」 寝起き特有の、艶めいた囁きが耳元に落とされる。 首元に腕が回され、背中から抱きすくめられた格好になった綱吉はぶすっと顔をしかめた。 「べつに」 「それじゃ分からないだろ。早く言いな」 「やだ」 「強情」 「―――恭弥には関係ない」 ・・・へぇ。一気に低まった声を聞いた途端、あ、やばいと直感が警告音を鳴らした。それは悲しいことに外れたことは一度もなく、 今回も例外なく怒らせてしまったようだ。 そろりと後ろに視線を滑らすと、切れ長の瞳に埋め込まれた夜闇の光が不機嫌に細められている。しかし唇はきれいな弧をゆるりと描いており、美しい微笑みを湛えている兄の姿を直視してした綱吉はゾッと背中を震わせた。 こうやって、笑いながら怒っている時は本気で恐ろしいのだ。 恭弥は滅多なことで怒らない。というか、感情を昂ぶらせない。それは恭弥が感情に疎いというわけではなく、彼の感情を揺さぶる『興味対象』が少ないだけだ。金や権力、地位や名誉、日常のあれこれといった普通の人間ならば回避できない物事も、彼にとってはどうでもいいことで全く頓着しない。前に一度世間の目など気にならないのかと聞いたら、「世間?何それ。僕が気にするほど価値のあるものなの」と一蹴された。こんなにも世の中に無関心な人間は本当に珍しい。 だが世間は、恭弥という人間に対して無関心を許さなかった。うつくしく、色気さえも孕む涼やかな美貌に酔いしれる人間は数多い。顔も極上な上に頭も怜悧。神に愛されたとしか言い様のない彼をほっとく人間のほうが珍しいくらいだった。 それに対し、弟である綱吉は全く平凡な人生を歩んできた。 双子という定めにも関わらず、兄と違って成績はドン底、運動神経も皆無。落っこちているバナナの皮にさえ躓いてこけた時には、「ワオ。まるで漫画の再現シーンのように完璧な転び方だね」と恭弥に絶賛された。正直嬉しくない。 見た目も美形の類に含まれたことは一度もなく、きれいという言葉とは縁の無い生活を送ってきた。ただ年の割りにはどうにも幼さが拭いきれない顔立ちなので、どちらかといえば「かわいい」部類に入るのだろうか。小動物を思わせる言動といい、無条件で愛される素質の持ち主だ。―――それが開花すれば、の話だが。 いつも兄の影に隠れて存在感のなかった弟。たいした才能も持たず、兄弟というにはあまりにも似つかわしくない平凡な子供。 けれど、その弟こそが恭弥の数少ない『興味対象』の一人だった。更に驚きなことに、綱吉という存在は恭弥にとって何よりも大切なもので。その可愛がりがりようは、周囲には理解できないほどだった。 「きょ、きょうや・・・?」 恐る恐る名前を呼べば、すぃと双眸が笑みを刻む。 そう、兄は。 綱吉が、線を引くように無関係を装うことをひどく嫌っていた―――昔から。 「つなよし」 かすれた囁きが、耳朶に押し付けられる。どくん。熱い呼吸をうなじで感じ、心臓がどくりと音を立てる。あれ。なぜ、自分はこんなに動揺しているんだろう。兄がこうやって怒るのは、いつものことなのに。 不思議に思いながらも、そっと回された腕に手のひらを重ねる。さらりと視界に落ちてきた黒髪に穏やかな笑みを浮かべながら、ちいさく呟く。 「ごめん。・・・関係ないなんて、嘘だから。ちょっと言い過ぎた」 ぽすんと恭弥の胸に頭を預ける。拒絶される心配など欠片もないように、安堵の表情で瞼を下ろす。何秒、経っただろう。そう長くはない時間を経て、ゆるゆると溜息が上から落ちてきた。 あ、もう怒ってないのかな。そう思って仰ぎ見ると、恭弥は見つめる綱吉の視線に気がついたのか、ふ、と唇を吊り上げる。 「分かればいいよ。綱吉と僕は、いつだって繋がってる。そうだろう?」 歌うように、つむがれた言葉。それにくすくすと笑いを零すと、恭弥の指先がこぼれた亜麻色の髪を一房掬い取り、耳に掛けてくれる。 こうやって、何でもないように優しさを与えてくれる恭弥が、とても好きだ。 思わず暖かな腕の中で笑って、くるりと身体の位置を変える。真正面から恭弥の顔を眺めた綱吉は、躊躇いもせずにその胸に飛び込んだ。 恭弥は難なくその身体を受け止めて、華奢な身体をやさしく抱きしめる。くん、と空気を吸い込めば、綱吉のあまい匂いが嗅覚を刺激した。 「甘えんぼ」 からかうような声は、いつにも増して優しい。嬉しさを隠すためにわざとむっとした顔を作ると、くすりと甘い笑いが返ってきた。それにつられて綱吉も笑顔をぱっと浮かべる。すると、夜闇の双眸が笑みを含んで近づいてきた。 ぐん。 身体を引っ張られる感覚の後、背中に感じたのは柔らかな布団の感触。綱吉の身体ごとベッドに倒れこんだ恭弥は、弟の身体を閉じ込めるようにして低く囁いた。 「あんまり、他の男に笑顔を見せるんじゃないよ」 え、と聞き返す暇もなく、ひんやりとした冷たさが首筋を襲った。しなやかな恭弥の指先が、惜しげもなく晒された白い鎖骨の上をすべる。くすぐったさに身をよじると、間近に見える綺麗な喉がくつりと笑っていた。 「きょうや、くすぐったい」 甘えた声。幼子に戻ったかのようなまろい声は、恭弥と二人っきりの時に出てしまう綱吉に癖だった。とろんと瞳をとろけさせ、ねだるように伸ばされる腕はぎゅぅ、と恭弥の身体を掴んでは離さない。 そんな弟の姿をうっとりと見下ろしながら、恭弥はまろやかな頬に手を添えた。柔らかな肌は、とても傷つきやすい。だからどこまでも丁寧な仕草で、くすぐるように頬の輪郭をなぞった。 「ん。きょうや・・・」 何かを求めるように縋る瞳に、恭弥は口端を持ち上げた。焦れるほどゆっくりに、言葉をつむぐ。 「キス。して欲しいの?」 わずかの躊躇いの後、こくりと頷く。 幼少の頃から、二人はベッドの中でじゃれあうのが好きだった。それは子供のお遊びで、抱きついたり頭を撫でたり、時にはキスしたり。少々行き過ぎな感もあったかもしれないが、それが兄弟にとっては当然で。 だが年を重ねるうちに、それが当然ではないことに綱吉は気がつき始めた。だから、距離を置いた。兄弟とはいえ、双子とはいえ、互いの境界線は在る。いや、在らねばならないのだ。そう言い聞かせた。 しかし、その考えは既にほころび始めている。大好きで、だいすきで。どうしようもなく愛おしいこの気持ちを抑える術を、精神的に幼い綱吉は知らない。 だから、もういいではないかと。 好きならば。そして兄も自分を好いてくれているのならば。 ちゅ、と押し当てられた唇の感触。やわらかな、愛に満ちた双眸。兄との戯れに、琥珀の瞳が喜びを滲ませる。うっとりと細められた幼い瞳に、呼吸が止まるほどの艶が輝いて。 ぴたり、と恭弥の身体が硬直する。切れ長の瞳を軽く瞠って、見つめる先には己の腕の中にいる大切な弟。例えるのならば春を待つ蕾。それが今、綻ぼうとしている。 「きょ、うや……?」 ことんと傾けられた頸。可愛らしい唇は誘うようにわずかに開いて、もどかしげに見つめる瞳には甘い疼きが感じられて。 ああ――――。 不意に恭弥は、両目を眇めた。どくん。激しい動悸が綱吉の身体を蝕む。肌が粟立つほどの色香を滲ませた恭弥は、なまめかしい仕草で綱吉の唇に指先をつ、と這わせた。 からだが、ふるえた。これから何をされるのか分かってしまった。 ・・・けれど、その震えは恐怖からではなかった。 視線が、絡み合う。身体を密着させた状態にある二人の距離はわずかしかなく、熱い呼吸が静寂に響く。最後の猶予だ、と言うように恭弥が綱吉の髪にくちづける。だが、綱吉は動かなかった。目の前の『男』の放つ雄の匂いに、頭がぼぅっとする。綺麗で、だけど獰猛な気配も漂わせる夜の瞳に、魅入ってしまった。 ――――くちびるが、触れる。 りぃいいいいいいいいん! びしり、と顔が硬直する。恐々と自分を組み敷く兄の顔を見れば、端整な美貌は影になっていて見えなかった。 だが、分かる。 今、恭弥は。 「―――・・・咬み殺す」 すごく、怒っている。 呆然。まさにそんな言葉がぴったり当てはまるだろう状況に追いやられた綱吉は、無残に粉々に散ってしまった自分の携帯電話をうつろな表情で眺めていた。 先ほど二人の耳に突然響いたのは、着信音で。あまりの出来事に動けなかった綱吉の上から緩慢な動きで退いた恭弥は、無言で携帯電話を拾い上げた。掛けてきた相手は、「山本武」。綱吉の数少ない友達の一人で、野球に燃えている好青年だ。 「あ・・・そういえば、今度の休みに旅行行く話、一応恭弥に許可をもらってこいって言われてたんだっけ」 だから、さきほど寝ている恭弥を起こしたのだ。早めに山本に連絡して、彼に迷惑をかけないようにと思ったから。 その話を聞いた恭弥は、ゆっくりと振り返った。表情が、恐ろしいほどに無い。 「それは、二人っきり?」 「え、勿論違うよ!獄寺くんと、三人で。キャンプとかいいよねーってさっき話してて・・・」 最後まで言う前に、恭弥は携帯電話を床に叩きつけた。 「ちょ、ええええええ?!」 驚きのあまりベッドから起き上がると、ありえないほど美しく微笑んだ恭弥が、それはそれは凄惨に瞳を歪めたのだ。 「―――今すぐ殺してくる。綱吉は良い子で待ってるんだよ」 「は?!ちょ、だから恭弥待って・・・!」 「前々からあいつは気に食わなかったんだ・・・あいつの目、見てると潰したくなる」 やけに静かな声で呟いたその内容は、綱吉にしてみれば恐怖以外の何ものでもなかった。恭弥は、やるといったら絶対にやる。 それが己の意思であり続ける限り、邪魔する者は無感情に排除する。 それにしても、「あの目」とは一体なんだろう。はて、と首をかしげる綱吉をちらりと視界に収めながら、恭弥は不機嫌に瞳を細めた。 あの、目。綱吉を見る、瞳のいろ。 今までは、綱吉に目もくれず自分の所にばかり人が集まってきた。それには、実は恭弥の意図も巧妙に紛れていたのだ。できるだけ綱吉を他人の視界に入らせないようにし、あの子を見る瞳すべてを自分に向けさせた。見る、その行為一つだけで恭弥はそいつの瞳を抉りたい衝動に駆られた。 大事な大事なつなよし。穢れのない、純粋なあの子を汚らわしい目で見るなんて万死に値する。あの子を見て、触れて、抱きしめて、愛するのは、自分だけでいい。 その、はずだったのに―――。 あの男だけは、違った。気に食わない。そう思うのは必須だった。だって、今のあいつが綱吉を見る目は、 「恭弥……?」 伸ばされた、手。けれどそれが触れることはなく、わずかの距離で戸惑うように揺れた。それは、二人の間の境界線を示されたようで。 だから。 「もう、逃がさないから」 抱きすくめた身体は、何よりも大切なもの。驚きに揺らぐ心は、何よりも大事なもの。 「逃げたいって言われても、逃がさない。……あいつの、ところにも」 そう、あいつ。 ―――自分と同じ瞳で、綱吉を見る男。愛おしくて仕方がない、求めてやまない、 愛されたくて、やまない色。 「もう、容赦しないから」 覚悟しておいて。 熱い吐息と共に微かな囁きを耳朶に吹き込んだ恭弥は、男女問わず思わず赤面してしまうような微笑みを浮かべた。 とくん。 ・・・あれ、まただ。熱を帯びてくるからだをぎゅっと抱きしめられながら、綱吉はふと思う。最近、恭弥と二人っきりで接していると時々胸がしめつけられるように痛くなる。それは辛い痛みではなく、とろりと疼くような甘い痛み。 それを自覚する日は、己が境界線を越えた日か。 それとも彼に境界線を破壊された日か。 fin. 茉莉さまより、15万Hitのお祝いとしていただきました! 随分前に戴いていたのに、upするのが遅くなって申し訳ありません・・・!!!(土下座) 可愛らしいですねぇ、可愛らしいですよ、兄弟ヒバツナはww ツっくん、早く気付いてあげてー!じゃないとお兄さんが狼さんに・・・!いやでもそれもまたそれで美味しい!!(お前) そしてさり気なく出てくるもっさんww電話だけなのに、なんて存在感なのか!(笑) 良いですねぇ、素敵ですねぇwwこれだから、茉莉様の兄弟モノはやめられないww(この変態さん) 茉莉さま、本当にありがとうございました!! Back |