彼は疲れていたのです。


見慣れたようで見慣れない、継ぎ目の美しい竿縁天井の柔らかい灰茶色。
よく見れば一枚一枚の木目が違っていながら、継ぎ目のところからは繋がっていて、まるでパズルのように組み合わされている。
だがしかし、時差ボケの抜け切れていない俺の頭は、その職人技の天井パズルを楽しむ前に眩暈を催した。
しかたなく畳に寝転んでいた体を横に寝返らせれば、開け放された襖の先に丹念に手入れされた縁側が見える。
しとしとと静かに降り注ぐ雨、潤む緑、霞む景色、全身に纏わりついてくる湿気は抗いがたい倦怠感を運んできて。

正々堂々違法にドンパチやらかす職業に就いてから、めっきり根暗になった俺の思考回路は、湿気にやられて笑えるくらい簡単に沈んでいく。



お前は観客だ、指揮者だ。
始める義務も、終える義務も、楽しむ権利も、お前にある。

作曲家はボンゴレの名それ自体、今更問うまでもない。

奏者はどこだ?

お前の目の前に控えた何百何千のピエロが見えないのか?
血の二拍子が奏でる嘆きのポルカ、死への道程を焦らすようなシチリアーナ。
舞台衣装なんて、その身に纏った狂気でおつりが来ちまう!

敵?
そんなのはガットにさえなりやしない。

善人ぶるな、正気なんて錯覚だ―――さぁ緞帳を切り落とせ!
現実と幻想を、緋色の境界を嘲笑え!

そして染まる世界を。
染めたお前の殺意を。

お前の延髄が役割を終えるその時、お前の視神経が朽ち果てるその時、お前の耳が腐るその日まで、決して決して忘れるな。

忘れるな

その紅いオーケストラは、お前によって血塗られ、お前によって奏でられている。

胸を張れ!

狂気なんぞ喰らい返して飲み下してしまえ!

嗚呼、果てを悟った者が呵呵と笑う様の、なんと滑稽で、清清しく、誇らかなこと!

同時に凡人たる己の矮小さに、うっかり頭を打ち抜きたくなったのは1度や2度のことではない。
俺はあそこまで行けない、たどり着けない、至ることはできないのだ。
いやだからこそ、あの死神は、この世で最強の名を冠し得たのだから、凡骨風情がその極みに手なぞ届くはずもなく。

今もこうして、生温い自堕落の底で、死したる者たちの幻聴に背を向けきれず。
だからと言って格段の罪悪感を抱けるわけでもなく。

中途半端に残った人間性が、ただぐずぐずと腐りながら渦を巻いているだけ。

なんて非生産的な。
なんて無意味な。
そして、なんて醜い被害者意識か!

―――・・・来る時期を間違えた気がする。

張りかえられたばかりと言う畳の香りを吸い込み、草の編み上げられた方向に向かってするりと手をなぞらせた。
何の抵抗もなく滑っていく指先がたどり着いた先に、さっきまで眠っていた布団の布地があって、一体いつこの場所から起き出したのかと考える。

「半日かけてきたくせに、随分と腐ってるんだね」

けれど思考が目標に至る前に、湿度をものともしない涼やかな声が頭上がして、視線を斜めに上げた。

シンプルな無地の黒着流しが地味に見えないのは、この男の静かな迫力のせいか整った見た目のせいか。
昔は学ランがトレードマークだった彼が、いつからこんな純和風思考になったのかは知れないが、似合っているので特に文句はない。
きっと懐古趣味があるのだろう。

「沢田?」

ぼんやりと見上げたままの俺に、不審そうな声がかけられた。

「8時間ぐらいの時差にやられるなんて、軟弱だね」
「今はサマータイムで7時間ですー」
「・・・その訂正は、君に何らかの利益を齎すの?」
「いえ、特には」
「そう」

膝を曲げて俺を見下ろしていた雲雀さんは、ピン、と俺の鼻先を長い指ではじいてすぐに立ち上がると踵を返した。
どうやら時間が空いたのではなく、文机の上の書類を取りに来ただけらしい。
この地区は今も昔も彼のテリトリーだから、当然、彼は忙しくいけれど俺は頗る暇なわけで。
いや、暇を求めに遠路はるばる来たんだけど。

今は暇と言うより憂鬱だから。

「雲雀さーん」
「その間抜けな呼び方止めてくれる?噛み殺すよ」
「今は噛まれるって言うか踏まれてるんですけどねー」

書類を手にして近づいてきた雲雀さんに、横を向いていた頭のこめかみ辺りを踵で踏まれながら、俺は普段の倍くらい無気力な声で話す。
意識的にじゃなくて、今の俺は完全に無気力状態と言うか、完全に脱力していて、割と容赦なく踏み拉かれていることにさえ抵抗を覚えなかった。
あ、ぐりぐりされるとさすがに―――痛、痛たた!

「痛いでーす」
「・・・」
「あだだだ!痛いですってば!!」

(一応)部下に頭踏みつけられて涙目になるなんて、ボスとしてどうなのとか言う以前に、成人した男としてどうなんだろう。
今頃、南米で嬉々として物騒な狩りに励んでいるであろう家庭教師の人を小馬鹿にしきった表情が頭を過ぎる。
恐ろしかったので、過ぎったままにしておいたけど。

あの死神も大きくなった。
始めは俺の膝頭くらいの身長だったくせに、いつの間にか大きくなって、気付けば俺は見上げなければ眼を合わせることさえできなくなった。
そして相変わらずイっちゃってる、色んな意味で。
まぁ、別に良いんだけど。
俺の傷を楽しそうにグリグリしたり、抉ったり、あまつさえ広げたりしなければ。
というか、戦闘の直前直後は、リボーン含め幹部全員が完全にトんでるからなぁ、何を言っても無駄なんだけど。

あーそれに比べて、何て平和で日常的なんだろう、この街は、この国は、この場所は。

「良いなぁ」
「・・・」
「え、なんでそんなドン引きするんですか!?」
「人に踏まれる趣味を持つ人間と、関わり合いたくないね」

ああ、なるほど。

「って、違いますよ、雲雀さん!あ、ちょっと、俺を変態にカテゴライズしたまま行かないでくださぁぁぁい!!」

スタスタと身軽な動きで廊下に向かっていた雲雀さんを、ナッポーと同じカテゴリは嫌だぁぁとばかりにずりずりと這いずって止める。
うん実際、ナッポーと同じは嫌なんだけど。
立ち上がるだけの気力はないが、上半身で追い縋るくらいなら―――こっちの方が歩くより絶対に体力を消費している気がする。

「ちょっと、気持ち悪いんだけど」
「うぅ、酷いです」
「大体、君だってもうすぐ30なんだから、いい加減その甘える癖止めな」

軽く振り払われて、さらに歳のことまで言われて、弱っていた俺はへにょんと畳に崩れ落ちた。

「酷いですよー最近、周りから歳のことでごちゃごちゃ言われてるんですってばー」
「当たり前でしょ、いい加減子ども作んないでどうするの」
「えー子守するのは好きですけど、奥さん候補が揃って10代なもんだから、そこはかとなく犯罪の香り」

さすがに14歳は丁重にお断りしたけど。
女の子の日が来てるとかそういう問題じゃなく、俺が中2のときに生まれた子が奥さんだなんて、俺の平々凡々とした感性からは地の果てすぎる。
畳の上でぐずぐずしている俺を呆れたように見下ろして、雲雀さんは手にしたクリアファイルをトントンと肩に当てた。

「何、じゃあ、30代ならいけるわけ?」
「いや、これ以上頭の上げられない人間を増やしたくはないなと」
「ふぅん?じゃあ、普通にれんあいけっこん」
「うわ、雲雀さんが言うと物凄い違和感」
「悪かったね」
「いだだだ!後頭部踏まないで!俺の鼻が今以上に残念な高さに!!」

のしっと乗せられた雲雀さんのおみ足から泣く泣く転がり逃げて、先ほどと同じように柔らかい色彩の天井を見上げる。
何でもいいけど、さっきから本当に俺立ってないな。

「恋愛結婚なんて、する機会自体に恵まれてませんけど」
「確かに、君の最盛期は高校時代だったしね」
「あー急に背が伸びたからでしょーねー」

すいっと、雲雀さんが、今度は畳に膝をついて俺を見下ろしてきた。

「笹川の妹だって、君が振った」
「―――・・・あ゛ー今のは効いた、会心の一撃。ちょっと、俺の心に1まんのだめーじですよ!どうしてくれるんですか!」
「どうにかする必要があるの?この僕に」

綺麗ににっこり笑って見せた、日本人形みたいに整ったかんばせ。
それが口惜しくて、腹筋に力を込めて上体を上げる。
予備動作で顔を持ち上げ―――

「仕返し」

ちゅ、

なんて可愛らしい音を立てたのは、湿気で俺の唇が乾燥してなかったから。
久しぶりの人間の唇は、やっぱり普通の皮膚とは違っていて、悪戯が成功した喜びも相まって自然に笑いがこみ上げてきた。
ふふふと笑いながら表情の変わらない雲雀さんを見上げていると、おもむろに端整な顔が近づいてきて―――開いた距離は再び零へ。

「お返し」

おお、その反応は予想外。
ぽけっとした俺を笑って、美しい人は今度こそ踵を返して廊下へ向かう。
その背を俺の間抜けな声が追いかけた。

「雲雀さーん、結婚してくださーい」

「馬鹿じゃないの」

高校で君に振られたの、あの娘だけじゃないでしょ。

きっぱりすっぱり鮮やかにそう言い放って、珍しく快活に笑いながら、雲雀さんは廊下に消えた。

「あー・・・やっぱり根に持ってるかー」

逃した鳥はでかかった、でも―――

「あんなこと言いつつ未だに―――ねぇ。―――・・・こんななら、別に観客兼任で指揮者やってもいいのにな」

そうすれば、始める義務も、終える義務も、楽しむ権利もこの手の中に。

「俺も、愛してますよー」

10年以上前に言い損なった言葉が、眼に見えない水に溶け込んで彼まで届けばいいのに。
馬鹿馬鹿しいくらい夢見がちなことを思いながら、でも、もしそんなことができたなら、今こうして纏わりついてくる鬱陶しい湿気も好きになれただろうにとも思う。

久しぶりに戻った布団から嗅ぎなれた香りがして、始めからここで午睡を楽しめばよかったなぁ、なんて思って目を閉じる。
次に開けたときにはきっと、あの美しい俺だけの黒い鳥が、不機嫌そうに横で眠っているんだろう。




fin.


dead spitの七海さまへ、相互記念のヒバツナを捧げさせていただきます!
そして、随分前にリクエストしていただいたのに、遅くなってしまい申し訳ありませんでした・・・!
ええっと、何と言うか、嘉月の趣味丸出しなヒバツナで申し訳ありません。。。
表面上はくっ付いてない二人が大好物の模様です。(え)
ほんとうにささやかなものではございますが、お持ち帰りも返品も七海様の自由でございますので、煮て焼いて炙ってくださいませ。
そして、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
相互リンク、本当にありがとうございました!!


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