健康で文化的な最低限度の。


The enjoyment of the highest attainable standard of health is one of the fundamental rights of every human being without distinction of race, religion, political, belief, economic and social condition.

そろそろ、自分が過労死への片道切符を購入しかかっているという強迫観念に苛まれながら、綱吉の心は一向に減らない書類を前に燃え尽きた灰のように崩れ落ちた。
日本の憲法が通じないイタリアだろうが、世界保健機構の憲章に調印しているイタリアで、そこの定めた権利が通じないことがあろうか。

眠い眠い眠い死にそう死にそう死にそう―――ん、眠くて人は死ねるのか?

「あーぅ」

ぐで、と樫の机の表面に頬を押し付ける格好になりながら、琥珀色の瞳を半眼にして視界の9割を占める書類を眺める。

終わらない、絶対に終わらない。

続けていればいつか終わるのかもしれないが、その前に綱吉の生命力が尽きる。
最後にベッドで眠ったのはいつだったか、と考えて、それが悲しいほど遠い過去のように感じられて、目を閉じた。

過労死した場合、訴訟を起こすならば誰を訴えればいいのだろう。

公的にはボンゴレ・ファミリーに法人格は与えられていないから、“沢田綱吉”が役員として登録されている、ボンゴレの表会社のどれかだろうか。
―――役員が過労死するような不祥事や経営難とは無縁の会社ばかりというのは、喜ばしい限りだ。

それに、綱吉の代理で訴訟を起こしてくれる人間がいない。

「あーおじや食べたい」

食事だって、ここ数日はサンドウィッチなどといった、片手まで済ませられるものばかりだったなぁ、と思って、イタリアンマフィアの頂点に座しているはずのボンゴレ10世は立ち上がった。

「もー無理。自主休業してやる」

そもそも、綱吉の就いている職は自由業のはずなのだ。
それが何故に、今にも執務室で過労死という名の戦死をしそうなのか。

くるりと椅子を回して、テラスへと通じるガラス戸を開け放し、ボンゴレ10世は数週間ぶりとなる青空の元へ足を踏み出した。




それから数時間経って。
コンコン、と気の扉を軽くノックする音がして―――勢いよく開かれた。
扉を開けたのは20代半ばの青年で、切れ長の黒い瞳が無人の執務机を迂闊だったと言いながら睨みつけると、すばやく踵を返して部屋を後にした。

「“白うさぎ”が逃げたよ。最近“アリス”の存在は確認されていないけど、一応捕獲パターン4、5時間以内に生け捕って。8時から“お茶会”が入ってるから、最悪それに間に合わせるように」

そして廊下を足早に歩きながら、幹部だけが所持している通信機にそう告げる。
ボスの筆頭秘書官のただならぬ気配を感じて、ファミリア達はその秀麗な表情を伺いながら廊下をすれ違った。


さて、その指示を受信している人間の一人は、ちょうど自身の執務室で数時間前の“白うさぎ”と同じように書類に埋もれていた。

「“女王”、“帽子屋”は“トランプの兵隊”に囲まれてるんだけどよー・・・逃げていいか」
『“帽子屋”は引き続き“トランプ”の相手をするように』
「だよなー」

うんざりしたような声を上げて、“帽子屋”は“トランプの兵隊”の海に退屈したように突っ伏した。


同じようにその指示を受けた人間の一人は、ちょうどイタリアを離れたヨーロッパの島国にいた。

「“女王”、“トカゲのビル”は“曇り空の下”で“お茶会”中だ」
『了解』

自分の状況を返答してから、“トカゲのビル”は心配そうに“白うさぎ”のいるであろう地中海の方角を眺めながら、溜息とともに紫煙を吐き出した。

「どうなさったんですか十代目ぇ・・・」


さらに同時刻。
ケープタウンで衛星通信を受信した男は、愉快そうに口元を吊り上げながら応答する。

「“女王”、“チェシャ猫”は“気紛れ”です」
『―――了解、“悪戯も程ほど”にね』
「もちろんです」

“チェシャ猫”はそう呟いて、彼の周りにいた人間に手を振って開始の合図を送った。
指揮官からの指示を受け、複数の男達が路地裏に姿を消す。

「殺しはしませんよ、日中ですし、今回は“程ほど”ですから」

次々に入る、反ボンゴレ同盟の拠点壊滅の報を受けながら、“チェシャ猫”はにんまりと再び愉快そうに笑った。


それから数分遅れて、同じイタリアの空の下にて指示を受けた男が返答を返した。

「こちら“三月うさぎ”、これより捕獲に入ります。・・・“女王”は動けますか」
『少し難しい状況だね。“ハートのキング”がもう動いているはずだ』
「了解」

それだけ言うと、“三月うさぎ”は通信を切って仕方なさそうな溜息をつく。
そして、クセ毛の頭に手をやりながら、人通りの多いところから少しだけ離れた路地を選んで歩き始めた。

「ボンゴレも、最近忙しそうだったからなぁ・・・」




そんな風に自分の捕獲作戦が展開しつつあることを知ってか知らずか、“白うさぎ”ことボンゴレ10世は、最近見つけたばかりの店でのんびりとトマトと白身魚のリゾットを堪能していた。
ボンゴレの息のかかっていない、中年夫婦で経営されている小ぢんまりとしたその店は、住宅街の隅にぽつんと普通の住宅のように建っている。
看板も、小さな黒板にチョークで手書きされたものなので、ほとんど看板の役割を果たしていない。
それでも、昼時でないにもかかわらず5つのテーブル全てが埋まっているのは、それなりのものを出してくれると近所で評判だからだ。

綱吉は、以前同じようにふらふらと本城から抜け出してきたときに発見したこの店が気に入っていた。
綱吉にとっては隠れ家的なものでありながら、家庭的な雰囲気の溢れている店内は、何も考えずにぼんやりするのに向いている。
ふと、窓の外から嫌な予感を感じて、綱吉は手元の新聞を広げて自然に顔を隠した。
一般人のように装ったガタイのいい男が、素知らぬふりで、けれど確かに誰かを探しながら店を通り過ぎていく。
ファミリアの顔を全て把握しているわけではないが、綱吉の中の超直感は彼がファミリアであることを教えてくれた。

「・・・さすが恭弥さん。今日は下町にいることが何でわかるんだろ」

すぐに人ごみに紛れてしまったファミリアを見送りながら、ボンゴレ10世は自身の主席秘書官の有能さに感服していた。

「さて、今のうちにさっさと別のところに行かないと」

今日の夜は、多くのマフィア関係者が参加する立食会があったような気もしたが、“人が到達しうる最高水準の健康”のために自身の生理的欲求を満たすことに決めた綱吉は、今頃自分を探して必死になっているであろう部下に申し訳なくなりつつ、軽い足取りで店を出た。


Fin.


受けていた講義があまりにも暇だったのでつい・・・。
いつものことですが、この話に深い意味はありません。


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