箱庭の楽園 <無知の幸福>


その男にとって、世界はただの知的好奇心を満たすための道具に過ぎなかった。
彼にとって意味があるのは、生命それ自体ではなく、生命の持つ螺旋状の情報に関することだけだった。

研究所の外では世界を巻き込んだ大戦が勃発していても、男にとっては取るに足らない出来事で。

けれど、遺伝子実験の被験者として集められた孤児院の子ども達―――特にその中でも一番鈍臭いほわほわの髪をした子どもによって、男の世界に鮮やかな色彩が生まれた。

姦しく、煩わしいのに、目を離すと気がかりで仕方なくて、男はそんな自分の矛盾した感情に、初めのうちは大層戸惑うことになる。
幼い頃より周囲から200年に1度の天才と呼ばれ、態度も無愛想で傲岸不遜な男に、臆することなく近寄ってきたのはあの子ども達が初めてだった。
だから、余計に彼らが特別に思えた。
その中でも、周りに比べて小さく、おっちょこちょいで、ダメダメな子どもとの時間は、かけがえのないものだった。

あの晴れた日に、空から着弾点を誤った焦土の悪魔が降ってくるまでは。






パタパタと、リノリウムの床を走る幼い足音が、始業前の廊下に響く。

「先生!」
「ツナ、廊下を走るな。転ぶぞ」

金茶の髪の少年が、ぐしゃぐしゃと頭を撫でられて嬉しそうに笑い声をたてた。
先生と呼ばれた長身の男は、無邪気に纏わりついてきた小柄な体を抱き上げて、大きな琥珀色の瞳を覗き込む。

「熱は下がったみてーだな」
「うん。恭弥が学校行っていーよって」
「そうか。―――宿題は?」
「・・・」
「ツナ?」
「・・・あぅぅ・・・」

急に沈黙してジタバタし始めた少年の様子を笑って、男は少年を下ろした。

「今夜は宿題し終わってからTVみろよ」
「えぇ〜今日は見たいのがあるのにー」
「いつもだろ」
「たしかに・・・」

しばらく不服そうにしていた少年は、けれどすぐに気を取り直し、男を見上げてにこにこと楽しそうに笑う。

「先生が林檎くれたんでしょ?ありがとう」
「ふん。―――今日は大人しくしてろよ」
「はーい。今日は部屋の中で遊ぶって約束したんだ」
「そうか」
「じゃあね、先生、またね」
「あぁ」

来たときと同じように駆け去っていく小さな背中を見送って、男は自分の部屋の扉を開けた。
雑然とした雰囲気の部屋に入れば、ソファに悠々と腰掛けている先客がいたが、特に驚くでもなく資料の積み上げられたデスクへ向かう。
黒革の椅子に腰掛けたところで、ソファに座っていた先客が口を開いた。

「凪と京子の熱が下がりました」
「そうか」
「武も大丈夫だと、了平が」
「わかった。・・・風邪ばっかりは防ぎようがねぇ。14〜15くらいになりゃ、大分落ち着く」
「えぇ、以前に比べると、容態のほうも安定してきました」

そう言って、整った顔立ちを穏やかに笑ませて、青年はソファから立ち上がった。

「先生には感謝しています」
「・・・ふん」

男がダイレクトに謝意を表されるのを苦手としていることを、青年はよく知っている。
だから、書類から視線を外さない男の様子がやけに幼く見えて、微笑ましく思いながら踵を返した。

「―――西側の人間が、あたりを嗅ぎまわっています」
「―――あぁ」

パタン、と、扉が閉まった。




蔦の絡んだ煉瓦造りの建物が、深い森に囲まれてひっそりと佇んでいる。
そのコの字型をした二階建ての建物には、東棟に生徒の宿舎が、中央棟に教室が、西棟に教師の研究室があった。
建物の正面には芝生の敷かれた広い中庭があり、その敷地の周りをぐるりと煉瓦の塀が、世界から楽園を守るように築かれている。
そんな建物の中央棟2階に、4つの机が適当な間隔を空けて配置されている小さな教室があった。

「あ、雨だ」

教室から窓の外を眺めていた綱吉の呟きに、隣で算数のプリントを埋めていた少年が顔を上げた。

「うわ、本当だ。これじゃ外で遊べねーな」
「・・・今日は中で遊ぶ約束、だよ」

後ろの席に座った少女が、静かな声でそう言ったのを聞いて、少年は無邪気に笑う。

「そっか、そうだった。じゃあ雨でよかった」
「あはは、武って本当に外で遊ぶの好きだよねぇ」
「そーだなぁ、了平と山ん中で探検したりするとワクワクするし。ツナも好きだろ」
「うーん、俺トロいから。いや、楽しいけどさ」

綱吉はそう答えながら、計算する手を止めた。
手元のプリントには、幼い字で数字と記号がごちゃごちゃと書かれていたが、肝心の解答欄は白いままである。

「あーわかんない」
「どこ?」
「んーと、(3)」 「俺も」
「京子ちゃんと凪は?」
「うーん、多分できたと思うけど・・・凪ちゃんは?」

愛らしい顔立ちをした栗色の髪の少女は、のんびりとした雰囲気でプリントを眺めながら、隣の少女へ問いかけた。

「私も、一応答えは出た」
「うぅ、同じ授業受けてるのになぁ」
「まぁしょーがねぇって、先生戻ってきたら聞こうぜ?」

武があっけらかんとした笑顔でツナを励ましたのと、ガラリと扉が開いて彼らの先生が入ってきたのは、殆ど同時だった。

この学校に、人間の教師は一人しかいない。
そもそも生徒が6人しかいないのだから、年齢さえ離れていなければ、1人でも十分だったのだろう。
しかし、年長組と年少組との間には12歳と言う年齢差があったのと、教師が面倒くさがりだったために、人工知能を積んだ教育ロボットが教師役を担っている。
たった一人の生身の教師は、基本的にそのロボットのメンテナンスを行ったり、自分の研究室に篭っていたりしていた。
―――たまに年長組で授業をしたり、年少組を構ったりしているが。

生徒達に親はない。
年少組の感覚から言うと、生まれたときから学校にいて、この学校で育ってきたから、ここが彼らにとって“家”そのものだった。
教師もその助手も、年長組も、彼らがどこから来て、何故ここで暮らしているのかを言わなかったけれど、年少組にとっては全てのことが当たり前のことで、何の疑問も抱かなかった。

ここは、幸せに満ち溢れる場所。




「綱吉、ボタン掛け違えているよ」
「ぅー」
「ほら、起きて」

年長の少年に言われて、既にベッドの上でまどろんでいた綱吉は、良い具合に訪れていた眠気を手放すのを嫌がってぐずついた。
黒髪の少年は、いやいやをする綱吉の頭をなでてやった後、おもむろに小さな体を引き起こす。

「ほら、綱吉?」

眠気に潤む琥珀の瞳を、烏の濡れ羽色の瞳が促すように覗き込んだ。

「・・・はぁい」

やがて、優しい睨めっこに根負けした綱吉の唇から、憮然とした返事が紡がれる。
しょぼしょぼと目を擦りながら、小さな手がボタンを留めなおし始めた。
それを本を読みながら見守っていた少年は、ドアを丁寧にノックする音に顔を上げる。

「恭弥くん、今、よろしいですか?」

そうドアの向こうから問われて、少年は本を閉じて立ち上がった。

「―――綱吉、今日は隣の部屋で寝るんだよ。僕は先生達と用事を片付けてくるから」
「えぇー了平いびきがうるさい・・・」

今度こそ本格的に眠ろうとしていた綱吉は、部屋を出て行く恭弥に抱き上げられて、心から不服そうに呟いた。
恭弥が片手であけたドアの向こう側には、照明の絞られた廊下に立つ助手が、穏やかな笑みを浮かべている。
そして、少年が抱っこしている綱吉を認めて、助手の左右異なる瞳が微かに苦笑を浮かべた。

「おや、綱吉。すみませんね、眠い時間に」
「んー」

綱吉は、寝惚け眼で恭弥の肩に頬を乗せたまま、伸びてきた助手の、頭をなでる手を受け入れた。

「ちょっと綱吉置いてくるから」
「えぇ」

恭弥が助手に背を向けて、隣のドアをノックもせずに開く。
ベッドも机もクローゼットも2つずつの部屋では、短髪の少年が武をベッドに放り投げてじゃれ合っているところだった。

「・・・何してるの」
「む?おぉ、恭弥に綱吉、お前らも加わるか?極限に楽しいぞ!」
「楽しいぜー!」

二人揃ってはしゃいでいる幼馴染みを呆れたように見ながら、恭弥はシーツがぐしゃぐしゃになってしまっている部分を片手でできるだけ整えて、ゆっくりと殆ど眠ってしまっている綱吉を下ろす。

「了平、一晩綱吉を頼むよ」

その言葉に、一瞬だけ了平の眉が寄ったが、すぐにいつもの笑みに変わった。

「うむ、極限に任せておけ」
「武、寝る前には歯を磨くんだよ」
「おー」
「それじゃ」
「ああ―――怪我をするなよ」
「・・・誰に言ってるの」

小さく言われた言葉に不適に笑って、恭弥は部屋を出ると、助手と合流して薄暗い廊下を歩いていった。
先ほどまで振り回されて騒いでいた武も、いつの間にか糸が切れたようにベッドの上で眠っている。
まだまだ小さなその体を抱き上げて、綱吉の横に並べて寝かせながら了平は苦笑した。

「お前も重くなったな」

赤ん坊の頃から面倒を見てきた子ども達に、良い夢を、と願いながらタオルケットをかける。

願わくば、いつまでも幸福な夢の中で、安らかに。




夕方まで降り続いていた雨は、霧に姿を変えて夜の森に満ちていた。
そんな闇と霧に沈んだ木々の間を、いくつもの影が過ぎる。
時々風を切る音や、何かが倒れる音、うめき声などが上がるが、濃い霧に飲み込まれてしまう。

バシャ、と、湿った枯葉の上に人影が倒れた。
それと同時に、濃厚な血の匂いが霧に溶け込んでいく。

「じゅう、に」

黒々とした鉄の凶器を両手に持って、恭弥は無感情にカウントした。
不意に気配を感じて獲物を振りかざせば、闇の中から見慣れた無愛想な教師の姿が現れる。

「こっちは、あらかた殺ったけど」
「ああ、こっちもな。骸はどーした」
「さぁ?でも生きてるでしょ」
「生死は問題にしてねぇ。アイツは見境がねーからな、暴走してそーだ」

手にした愛銃に新しい弾を装填しながら、教師は恭弥の足元に転がる人だったものへ目を向けた。

「しつこいもんだ。もう7年目か」
「そりゃね。それだけ貴重なコードだったんでしょ、先生?」

言外に、貴方が一番知っているじゃないか、と言いながら、恭弥は顔を上げる。

「戻ってきた」
「ああ」

カサリと微かに音がして、長身の痩躯が霧に紛れて姿を現した。
闇の中でも異様に輝く右の瞳は、禍々しいほどに紅い。

「先生、すみません。つい暴れてしまいました」
「義眼の神経回路が切れたな。ったく。いつも言ってるだろーが」
「我慢ができなかったので」
「そーかよ。恭弥、お前の腕は?」
「別に、神経反射に問題はないよ」

恭弥は、教師に問われて、右腕をくるりと回して見せた。
その様子を眺めながら、教師は肩をすくめる。

「最近メンテしてなかったからな、帰ったらどっちもメンテするぞ」
「あはは、お手柔らかに」
「・・・」

3人が去った後には、30体をくだらない屍が伏していた。





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