汝、希求せよ 天地創造の神話に語られる、七つの大罪。 傲慢。 嫉妬。 憤怒。 怠惰。 強欲。 暴食。 色欲。 創世の神話は語る。 七つの大罪とは、人を罪へと惑わす悪しきものであると。 遥か遠い神々の時代、この七つの大罪を担いし呪われた七柱の神々がいた。 崇高にして善なる神々は、人々を罪へ導く邪なる七柱の神々と戦い、ついには此岸の大陸より彼岸の大陸へと追い払った。 そして、善なる神々は、邪なる神々が再び此岸へと蘇ることのないよう宝珠に封じ込め、彼岸の大陸を廻り続ける海で取り囲んだ。 此岸の大陸の最西端には、彼岸の大陸を監視するために砦が築かれ、善なる神の化身たる英雄王がそこを統べている。 かくして世は平らかになり、人々の心には平安が訪れ、人々は善なる神々に仕える敬虔な使徒である限り、罪に惑うことはない。 ―――されど、歴史とは、神話とは、勝者によって紡がれる、勝者のための物語。 地図の上での世界には、大きな、途方もなく大きな大陸が一つと、それを取り巻く小さな島々だけがあった。 だが、西の果てに、地図に記されず、人々に忌まれ続ける大陸がひっそりと存在している。 かつて、転地創生の昔、此岸の大陸より追い出された邪なる神々が流され封じられたと言われる、名もない大陸。 荒れ果てた、痩せた大地。 晴れ渡ることのない、薄暗い空。 狗とも、狐とも、狼ともつかぬ冥府の獣が支配する大陸。 大陸を取り巻くは、善なる神々が封印として施した大陸へと回帰する海流。 名もない大陸へ一度でも足を踏み入れたならば、決して出ることはかなわない。 そんな名もない大陸は畏怖と侮蔑の象徴として、神話や伝承の中で罪に惑わされた人々の堕ちる地獄として語られてきた。 だが―――。 名もない大陸へと流された邪なる神々に仕える民達は、そんな世界の中で千年にわたってひっそりと、したたかに生き抜いて。 いずれ、東の大陸の覇権を、彼らの神々の栄光を取り戻さんと、歴史の闇に埋もれた暗がりで息を潜めて静かに牙を研いでいた。 時は来たれり。 荒野に佇む重厚な建物の、明かりが燦々と輝く最も広い広間には、狗とも狐とも狼ともつかぬ白銀の獣を傍に置く人々が整然と並んでいる。 そして、正面に据え置かれた玉座に座す、爛々と輝く金色の瞳をした初老の偉丈夫を見つめていた。 その数百と言う金色の視線を受けながら、偉丈夫は再び、噛み締めるように、世界を嘲笑するように宣言する。 「時は、来た」 取り戻せ、我々の手に、世界の全てを。 奪い返せ、我々の手に、失われた全てを。 宣言と共に湧き上がり、広間を包んだ憎悪は、憎悪ゆえに禍々しかったのか。 それとも―――。 玉座の偉丈夫の影に控えた、左右異なる瞳の男の口元が、くつりと愉快そうに釣りあがった。 フードで頭を覆い、顔の下半分から頚部までは薄くしっかりと編まれた長布を緩く幾重にも巻きつけ、その上から砂色のマントを羽織り、肌という肌の露出を防いで砂漠を行く旅人。 その旅人は、時折吹き付けてくる風にマントの裾を翻しながら、顔半分を覆う布を押さえる役目も果たしている黒い大きなゴーグルの下から自分の辿る道の先を見遣った。 砂嵐に煙る視界の先に、砂に同化してしまいそうな、砂煉瓦で築かれた建物が見えてきて旅人の方から少しだけ力が抜ける。 そして、黒いゴーグルをかけた視線を前方から、自分の隣に影のように寄り添う漆黒の獣へと向けた。 吹き荒れる風も、舞い上がる砂埃も、まったく意に介した様子も無く、体重を感じさせないしなやかな動きで砂の大地を踏みしめる、漆黒の獣。 狗とも狐とも狼ともつかない獣。 毛並みと同じく、混じり気のない黒い瞳が、足を止めた旅人へと向けられた。 その射るような目線に、旅人の足が再び歩み始める。 今夜の宿はもう目の前だった。 木の柱と土壁で築かれた簡素な宿屋。 組み合わされた木枠に、砂埃を被ったベッドマットが納まっているベッドと、洗面の水が汲み置かれた水瓶、脚の長さが違うために斜めになってしまっている小さなテーブルと椅子。 それが、旅人の今夜の宿にある物のすべてだった。 板で覆われた部屋の窓の向こう側では、本格的に砂嵐が吹き荒れ始めたらしく、ザァザァという音が絶え間なく聞こえていた。 部屋の天井には、随分と年季が入っているらしい、ひび割れたランプが無造作に吊るされている。 その弱弱しい光によって作られた部屋の隅の薄暗がりには、細かな砂が箒で集められているのが見えた。 旅人はその見慣れた部屋をぐるりと見回してから、手渡されたベッドシーツや枕カバー、埃臭く分厚い毛布をテーブルと椅子に置いた。 次に、肩にかけた頑丈な皮製の荷物入れを無造作に床に投げ出して、視界を狭めるゴーグルを外す。 それと同時に頭を覆っていたフードと、鼻から下を覆っていた長衣が解けて、身長のわりにはやや幼い青年の顔が現れた。 そうやって装備を解けば解くほど、サラサラと床に土埃が落ちる音がして、青年は顔をしかめる。 宿の入り口で念入りに払ったはずだが、あまり意味は無かったらしい。 「はぁ、参るなぁ・・・」 誰に言うでもなくそう呟いて、身軽になった身体を古いベッドマットに乗せた。 ギシリと、ベッドの木枠と、マットのスプリングが、それぞれ少しだけ異なる音で軋む。 そうして暫く煤けた天井を見上げていたが、部屋の扉が音もなく開いたのを視界の端に捕らえてそちらに顔を向けた。 音も無く入ってきた黒い獣は、どこでどうやったのか、青年の見慣れた艶やかな美しい漆黒の毛並みをしている。 先ほどまで、青年と同じように砂嵐に散々なぶられていたというのに、その凛とした様子からは全くその気配を伺うことができない。 青年は、フードに覆われていたというのにバサバサになってしまった自分の髪をいじりながら、自分の下へ近寄ってくる獣を出迎えるように身を起こした。 そして、自分の膝頭に鼻先を擦りつける獣の頭を優しく撫でる。 「リボーン、今日もお疲れ様」 その言葉に応えるように、鋭くも思慮深い獣の瞳が真っ直ぐに青年の琥珀の瞳を見上げた。 「明日は砂嵐もう少し治まってたら良いんだけど・・・」 リボーンと呼ばれた獣は、そんな青年の懸念の声には特に反応することも無く、ふさふさの立派な尻尾で床を叩いた。 その尻尾の先の、テーブルの上に置かれたままのシーツを見て、青年は獣の言わんとしていることを理解して苦笑する。 「はいはい、今夜の寝床をありがたく作らせていただきます」 青年は、冗談めかした口調でそう言いながら立ち上がって石鹸の匂いのするシーツを手にすると、気位の高い相棒の満足するような寝床を作り始めた。 それを満足げに見遣って、獣は板に塞がれた窓の外へ耳を傾ける。 人間よりも遥かに優れた獣の耳には、吹きすさぶ風にしなう木々の葉ずれの音、細かな砂が窓を叩く音や絡み合う風の音さえも届いた。 砂漠の機嫌は変わりやすい。 快晴だと思いきや唐突に砂嵐が吹き荒れる、なんてことは珍しいことではない。 そのことを熟知している獣は、青年が手際よく整えた寝床に青年よりも早く潜り込んで、分厚い毛布をどけて身体を丸めた。 ややあって、簡単に身繕いを終えた青年が、冷えた砂漠の夜気に震えながら獣の隣に潜り込んでくる。 冷え込んだ気温は、厚い毛布の下でも青年に寒さを感じさせているらしい。 それを知っている獣は、いつものように―――何でもない振りを装いながら、自慢のふさふさした尻尾を毛布の下に滑り込ませて青年の身体に乗せた。 「うーやっぱりリボーンは暖かいねぇ、ありがとう。お休み、また明日ね」 その尻尾を至極丁寧な手つきで撫でながら、もう片方の手でそっぽを向いている獣の頭を撫でて青年は瞳を閉じた。 Next Back |