汝、希求せよ


不意に青年が闇の中で目を覚ましたのは、不審の気配を察したからではなく、不審な気配を察したリボーンの左前足に思いっきり胸骨付近を踏みしだかれたからである。

「ちょ、リボ、げふっ」

胸を思いっきり圧迫されているため物理的に胸を詰まらせながら、青年は生理的に潤んだ瞳で闇に同化している獣を見上げた。
しかし、リボーンはそんな青年の様子には興味がないのか、尖った耳を窓の外に向けたまま顔を動かさない。
いつの間にか外は静かになっていて、砂嵐が通り過ぎているらしいことが察せられる。

グルルル・・・

リボーンの喉から威嚇の唸り声が聞こえるに至って、闇に慣れた青年の瞳は警戒に毛を逆立てた獣を捉えた。

「・・・お客さん、か。親書はもう届けちゃったし、それ関係じゃないよね」

情報の行き違いで、たま王の親書などを届け終えたことを知らずにそれを狙って襲ってくる野党がいるが、さすがに、これほど隣国から離れた場所で親書を奪おうと考える人間がいるとは考え難い。
次の瞬間、青年の瞳からするりと膜が剥がれ落ちるかのように感情が抜け落ちて、身体の動きが無駄のないものに変わる。

「さて、どなたかな」

口調だけが、いつもの青年のもので、研ぎ澄まされた闇の中で奇妙な齟齬を生み出した。
穏やかな口調のまま、窓から距離を置いて自分に寄り添っている獣に視線を走らせる。
その意を汲み取ったかのように、リボーンが闇に溶けた。

間髪いれず、先ほどまで窓のあった、通りに面している側の壁が音もなく粉々に砕け散る。
そして、冷えた夜気と共に、澄み切った夜空に浮かぶ満月が、煌々とした光を闇に満ちていた部屋へ投げかけてきた。

パラパラと舞い散る古びた木片と土くれの向こう側に、黒尽くめの人影が並んでいる。

顔も髪もない、人の形をした闇。

それを認めた瞬間、青年は床を軽く蹴り右に飛んで、先ほどまで寝ていたベッドマットを蹴り上げた。
そして、盾と化したマットにトトトト、と研ぎ澄まされた刃物が深々と刺さる音を聞き終えることなく、音もなく部屋に飛び込んできた人影の懐へ1歩半で移動して、髪も目も鼻も口もない頭を胴から切り離す。
そのまま力の抜けた人影を左に押して、両サイドから迫っていた別の人影たちの一方の動きを遮りながら、もう一方の人影の頭を剣で土の壁に縫い止めた。
さらに剣を壁から引き抜く力を利用して、一瞬だけ動きの鈍った左側の肩から足の付け根辺りまで袈裟懸けに切り払い、そのままの勢いで身を屈める。
すると、正面から迫っていた人影は、青年の背後にから跳躍してきた獣に喉笛を噛み切られて、重力にひかれながら床に仰向けに転がった。
その獣に左右から踊りかかった人影の一方は、獣の鋭い爪に胸をえぐられ昏倒し、もう一方は態勢を整えた青年の剣に頭を払い飛ばされて壁に激突して果てる。

「・・・出てきたら?」

そうして、息を乱すことなく剣を構えなおした青年の、静かな視線が通りの路地裏へと向けられた。

いつの間にか、そこにはフードを目深に被った人影が佇んでいる。
先ほどまで襲い掛かってきていた人影とは違って、フードからは真一文字に引き結ばれた端整な口元がのぞいていた。
それが誰なのかを察した青年は、相変わらず穏やかな様子で口を開く。

「―――久しぶりだね、はや」
「軽々しく呼ぶな、裏切り者」

声変わりを終えたばかりの少年の声が、青年の言葉を遮るように紡がれた。
それを特に意に介した風もなく、青年の唇は音を紡ぐことを止めない。

「隼人、このままここで続ける気?君のお得意の花火は、街中ではちょっと派手すぎると思うけど」
「戦いに来たわけじゃない。ただ、教えに来た」
「―――ふぅん?」
「“時は、来たれり”」
「・・・それは、つまり―――」
「いずれ、わかる」

そうとだけ告げて、少年は吹いてきた突風に舞い上がる土埃に消えた。
同時に、部屋に転がっていた闇色の人影も溶け消える。
口数の少なかった少年の言葉を反芻しながら、青年は暫く周囲の気配を探ってから肩の力を抜いた。

剣をおさめ、ぼんやりと部屋の中に突っ立っている青年の手を、リボーンの頭が押し上げる。
無意識に腹部の辺りにある獣の頭を撫でて、青年は遣る瀬なさそうに溜息をつき、膝を曲げてリボーンを抱きしめた。

「・・・隼人も大きくなったもんだなぁ」

青年が最後に見たあの少年の姿は、燃え盛る炎の向こうで、泣きじゃくりながら灰褐色の瞳に絶望と憎悪を滾らせて、こちらを睨み据えている姿だった。
一瞬、思い出した光景に胸の辺りが軋んだが、部屋の中に冷え冷えとした夜気が流れ込んできたのを機に気を取り直して立ち上がる。
粉砕に等しい状態の壁をちらりと見て、顔なじみの宿屋の主への言い訳を適当に考えつつ、いつの間にか床に敷かれていた毛布に寝そべる獣に包まれて瞳を閉じた。




闇に輝く金色の瞳。
尋常ならざる、ぎらついた、獰猛な瞳。

完全に正気の失せた瞳が、愉快そうに弧を描く。

煌くのは、よく手入れされた白刃。

その白刃が閃いた先には―――


殺せ殺せ殺せ殺せ殺セ殺セコロセコロセコロセコロセ―――


人殺し!!!


「―――っ!!」

ビクンっと、自分の身体が揺れた衝撃で目を覚まし、青年は夜明け間近の薄暗がりの中に身を起こす。
けれど、自分を包み込む暖かく柔らかい存在に、強張っていた全身がゆるゆるとほぐれていった。
ゆっくりと身体を起こしたリボーンが、青年の腕に尻尾を、頬に鼻先を摺り寄せる。
それに応えながら、首筋を伝い落ちていく寝汗をぬぐって、大きく溜息をついた。

誰を騙そうとも、誰に誤解されても、決して誤魔化すことのできない存在。
どうやっても欺くことのできない、者。

自分自身。

自分は“真実”を知っている。
その事実が、何よりも青年を苛んだ。

くぅ。

青年の首元に鼻先を置いていたリボーンから、非常に不服そうな声が上がって、青年は思考の螺旋から現実へと意識をシフトした。
見れば、誇り高い獣の瞳が、思い上がるな馬鹿が、とでも言いたげな光を宿して青年を睨んでいる。

「そう、だよな。リボーン、俺にはお前がいる」

大体ヘコんでいても仕方がない。
青年はそう言って笑い、ゆっくりと立ち上がって、吹き込んでくる冷気に身を震わせながら身支度を整え始めた。




朝っぱらから額が痛くなるほど土下座をした青年は、若干赤くなったおでこを気にしながら宿屋の台所で皿を拭いていた。
何だかんだ言って気の良い宿屋の主人は、一日宿の仕事を手伝うことで、吹き飛んだ壁を無かったことにしてくれた。
そのことに心から感謝しながら、傍らの陽だまりで丸くなっている小さな黒い毛玉を、半眼で見やる。

「お前も少しは手伝えよなー」

青年のぼやきは、子犬のような大きさになったリボーンの、ふわふわとした毛皮に包まれた耳には届かなかったらしい。
敢えて聞こえていない振りをしているようにしか見えなかったが。

「薄情なヤツ」

唇を子どものように尖らせながら、青年は再び皿を拭く作業に専念し始めた。
これが終われば、次はシーツの洗濯、その次は2階と3階の客室の掃除、そして昼食の配膳などなど、数え切れないほどの仕事が待っている。
何でも屋としての仕事もあったが、それほど期限が差し迫っている依頼もなかったし、何より自分に落ち度があることを青年は良く知っていた。

不意に、それまで穏やかだった食堂が不自然なほどざわめいたのが聞こえてきて、青年は何事かと厨房の窓から顔をのぞかせる。
すると、顔見知りの常連客の一人が、その姿を認めて近寄ってきた。

「おい、聞いたかよ」
「何かあったみたいですね」
「西の―――名もない大陸のヤツらが、西方諸島を制圧したんだってよ」
「―――制圧?」
「昨夜のうちに攻め上がってきたらしい」
「名もない大陸の周りの海流は、大陸へと回帰する無限海流で、彼らがあの大陸から出ることは不可能なのでは?」

だからこそ、あの大陸は流刑地となった。
だからこそ、あの大陸は呪われていると言われてきた。
だからこそ、あの大陸の民達は、侮蔑を込めて帰らざる民と呼ばれてきた。

青年の言葉に、顔なじみの客は大きく頷いた。

「そこだ、そこが一番の問題だ。今のところは詳しい情報がないから何とも言えないが・・・なんにせよ、恐ろしい時代が来たってことは間違いねぇ」

沈痛な面持ちの客を視界の端に捉えながら、青年は食堂を見回した。
誰もが、名もなき大陸の帰らざる民達の存在を、今初めて実在するものだったのだと実感したかのように呆然としている。

語り継がれる、転地創生の伝説に登場するだけの、戦いに敗れし邪なる神々に仕える人々の末裔。
その傍には、冥府の使いが常に寄り添い、血に飢えた眼をぎらつかせているとも、世界の眼と呼ばれる強力な秘宝によって人を意のままに操れるとも言われている。
その全てが真実ではないにせよ、東の大陸の民達にとって、西の大陸の民達は禁忌の存在そのものでありながら、どこか物語的な存在だった。

しかし、たった一夜で、脱出不可能といわれた大陸から攻めあがってきた。

それが、どれほどの衝撃となって東の大陸の人々を襲ったのだろう。
空気が軋んだような食堂の様子から、誰の表情からでも、読み取ることは簡単で。

朝日の差し込む食堂の、古びた9つのテーブルでは、すでに旅支度を終えた商人や旅人達が先ほどまでは思い思いに談笑していた。
しかし今は、口を開けばそこから災いが忍び込んでくるとでも思っているのか、誰もが口を閉ざして手元の号外を読んでいる。

いくつかある、砂漠特有の小さな窓の形に切り取られた日の光に照らされて、細かな塵芥がキラキラと煌きながら漂う光景だけが、いつもと同じ朝。

青年は、重い雰囲気に包まれた食堂の様子に、かすかな憐憫と嘲笑を織り交ぜた瞳を眇めて皿洗いに戻った。




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