汝、希求せよ


水場に戻れば、先ほどまで日向で丸くなっていたリボーンは、さすがに強さを増してきた日差しに閉口したらしく、日の当たらぬ厨房の奥の椅子で丸くなっていた。
しかし、乱れた内心を表すような青年の足音に、伏せていた顔を上げる。
いつもよりも険が薄れ、いとけなく幼い顔つきになった獣のところまで歩み寄って、青年は丁寧な手つきで小さな身体を腕の中に抱え込んだ。
そして、リボーンが丸くなっていた椅子に座り込む。

プライドの高さならば世界最高峰のリボーンは、まるで子犬を扱うかのような青年の所作に不服そうに小さく鼻を鳴らしたけれど、暴れたり噛みついたりすることなく大人しく青年の腕におさまっていた。
その上、考え込むように眉間にしわを寄せて、床の一転を見つめる青年の柔らかな頬を舐めてさえやる。

リボーンにも聞こえていたのだ、一部始終が。
だから、この世にたった一人しかいない己の半身の内心も容易に察せられた。

5年前に、決めたんじゃねぇのか。

獣は内心でそう思いながらも、動かない片割れの肩に顔を乗せて大人しくしていた。

彼の半身は、なかなかに繊細だ。
気をつけて取り扱わないと、勝手に暴走を始めるから困る。

やがて、腕の中でじっとしていた獣が、だんだんと飽きてきてふわふわとした尻尾で青年の膝をたしたし叩き始める頃、くぐもった、呻くような声が青年の唇から零れた。

「―――どうして」

それを聞いて、幼い獣の様相がさらに不機嫌なものになり、幼いが故に尖った牙が青年の耳につき立てられた。

「い゛っ」

突き抜けるような鮮明な痛みに青年の肩が揺れ、リボーンはその隙にするりと腕の中から厨房の床へと舞い降りる。

「何するんだよリボーン!」

痛みのために浮かんだ涙をそのままに睨まれても、ちっとも怖くない。
獣は青年の言葉なぞどこ吹く風と、飄々と厨房の床を蹴って台へ上がる。
そして、青年と同じ目線になって、漆黒の瞳に鋭い光を宿してせせら笑った。

“甘ったれるな沢田綱吉。テメーの覚悟はそんなもんか”

幼い外見に似合わぬ、居丈高で高圧的な言葉が獣の口を介さずに青年の脳内に響いた。
その言葉に、青年―――綱吉はむっとしたまま黙り込む。

“この俺の半身が、んなくだらねぇことを言うのか”
「―――っ」

馬鹿にするようなリボーンの言葉は、綱吉の瞳に再び決然とした光を生み出して、その結果に誇り高い獣は満足そうに瞳を眇めた。

そう、それでいい。
お前がその命を差し出したときから、お前に迷う権利も逃げる道も残されていない。

正解だ、とでも言いたげに台から膝の上に飛び乗ってきたリボーンを撫でながら、綱吉は自身の心の方向性を定める。
やることは一つだ。

彼女と、約束した。
彼らを、止める、と。
混沌に飲まれてしまわぬように。
そのために、東の大陸の守人たる砂漠の王に仕えてきたのだから。




『久しぶりだね、隼人』

そう穏やかに言った男は、記憶よりも少しだけ歳をとっていたけれど、記憶と同じ顔つきをしていた。
まるで、何事もなかったかのように。

朝日にしては眩しすぎる砂漠の太陽が、大きな岩場に腰を下ろす少年へ、強烈な光を浴びせかけている。
フードを目深に被った彼は、まばらに背の低い木や草が生えている岩場のオアシスに、一人座っていた。
少年の背よりも遥かに高い岩々が、吹き付けてくる砂漠の風を少しだけ緩めてくれるおかげで、隼人の思考を乱すものは何一つない。

彼が宿を取らずにこんなところで野宿をしているのは、単純に東の大陸の人間と関わりたくないからだ。

彼の一族は―――彼の生きてきた大陸の人間は、かつてこの大陸から西の大陸へと排斥された七柱の神々に仕える人々の末裔である。
彼らが仕えし七柱の神々は、各々が負った役目のために、千年の昔に謂れなき排斥の憂き目にあった。
今をもってして、六柱の神々は宝珠の中に封ぜられている―――宝珠を破壊された、七柱の神々の最高位、“傲慢”を担いし神を除いて。

かの神々の本質を知らぬ、愚かな民。
虚飾にまみれた歴史を享受する道化。

彼らが忘れ去った、邪なる神々が、帰らざる民が、かつてどれほどの恩恵を彼らに与えてきたことか。
それなのに、いったいどれほどの同胞が、この大陸の民の手によって屠られたことだろう。

冤罪、弾圧、虐殺。

善なる神の名の下に、邪なる神の民達は血塗られた歴史を歩まざるを得なくなった。

“善”とは、誰にとっての善なのか。
“邪”とは、誰にとっての邪なのか。

そんなことさえ押し付けがましい神話に塗り潰されて、残ったのは形なき帰らざる民の慟哭ばかり。

力さえあれば―――!

『・・・奪われたから、奪い返して。憎いから、殺して。―――それじゃ、千年前の東の民と同じじゃないか』

隼人がまだ幼かった頃、岩ばかりの平原に設えられた教壇で熱弁をふるう教師を睥睨しながら、彼の兄代わりの少年がポツリと呟いたことがあった。
いつもは穏やかで、どちらかといえば気の弱い兄の言葉とは思えず、思わずまじまじとその横顔を見てしまったのを今でも覚えている。
思えば、兄―――綱吉は、あの時から、自分の一族に対して反感を持っていたのだ。
だから―――。

だから彼は、一族の長であり自身の養父でもあった隼人の父と、一族の神官長の娘であった幼馴染みを殺し、神殿の一部を焼いて一族の秘宝の力を使って名もない大陸から姿を消した。

隼人が最後に見た綱吉の姿は、炎に包まれた神殿の最奥で、深い悲哀と決然とした決意を瞳に宿し、漆黒の御使いを従え真っ直ぐにこちらを見ている凛とした姿だった。
涙と煙に霞む視界で、不思議とその姿だけははっきりと捉えられた。
彼の服や頬などにべったりとこびり付いた、父と幼馴染みの命の紅とともに。

『お前だけは絶対に許さない!殺してやる!絶対に!!』
『―――隼人、お前は、間違えちゃいけない。―――を、交わしてはいけない。あの―――に騙されるな』

狂ったように呪いの言葉を吐き出す幼い弟の言葉など歯牙にもかけず、赤々と燃える炎の向こう側で、兄は諭すようにそう言った。
それを機にさらに勢いを増した炎は、隼人やその後ろから姿を現した追っ手を嘲笑うように盛大に火の粉を舞い上げて、あっという間に兄の華奢な姿を飲み込んでしまった。
後に残されたのは、破壊された“傲慢”を司る神の宝珠と、黒々と焦げ目のついた神殿の床や壁だけ。

そこまで思考を巻き戻したところで、隼人は吐き気を覚えて頭を振った。
すると、先ほどまで全く聞こえなくなっていた砂漠を吹き渡る風の音が耳に届いて、自分がどれほど思考に沈み込んでいたのかを知る。
見れば太陽の位置も高くなっており、失態に舌打ちをしながら立ち上がって指を鳴らした。
ややあって、一羽の大きな鷲が晴れ渡った天空から舞い降りてきて、分厚い皮の手袋をした隼人の腕にとまる。
鳶色の賢しき瞳が、物問いたげに暫く隼人を見つめていたが、やがて自分の役目を了解したのか、一度羽を羽ばたかせてから空へと舞い上がった。

隼人の役目は、裏切り者の監視。
そして、七柱の神々の最高位に位置づけられる“傲慢”を司る神の御使いの奪還である。
―――殺すのは、残念ながら、今のところ彼の役目ではない。

いかにして、綱吉が封じられた神と契約を交わしたのか。
いかにして、綱吉が神の宝珠を破壊したのか。

その答えを得るまでは、彼を生かしておかなければならない。

『感情的になってはいけませんよ』

族長の絶大な信任を受ける男の、どこか癇に障る穏やかな声が、隼人の機嫌をさらに損なった。

あいつは、嫌いだ。




さらさらと、貯水池から引かれた水が小川となって、整然とした白亜の宮殿のいたるところを流れていた。
所々に作られた緑地がそれに彩を添えて、確かにこの宮殿が、大陸でもっとも美しいと評されているのだと知る。
広大な砂漠を延々と歩いた、という記憶がなければ、この宮殿が砂漠のオアシスに築かれたものだということに、訪れた人々はきっと気付かないだろう。
それほどまでに、水に富んだ美しい宮殿だった。
もちろん、小川を流れる水は装飾のためだけに流れているのではなく、宮殿で使用された後は、宮殿の地下のろ過装置で丁寧にろ過され、民衆の洗濯場へと提供されている。


「ふぅん?」

風通しの良い王の間の玉座に座した青年が、興味があるのかないのかよくわからない返事をしながら、数段下に畏まっている綱吉を見下ろした。

黒髪に黒い瞳、陶磁器のように白い肌は、彼が砂漠の国を治める王であることを忘れさせるほどに透き通っている。
細かな装飾の施された肘掛に肘を置いて、砂漠の王―――雲雀恭弥は、彼直々の命によって入国と同時に宮殿まで引っ張ってこられた顔馴染みの旅人を観察した。
綱吉は入国したときのままの格好のため、当たり前だが、旅装束は砂埃に汚れていて、フードを外した頭はいつも以上にピンピンとあちこちはねている。
人払いをした王の間には、雲雀と綱吉しかいないのだからもっと寛げばよいものを、生真面目なのか小心者なのか(恐らくは後者だろうと雲雀は勝手に推測している)、綱吉は畏まった姿勢を崩さない。
その後ろでは、先ほどまで子犬にしか見えなかった、美しい漆黒の毛並みを持つ大きな獣が、綱吉を跪かせている雲雀を腹立たしそうに睨み据えている。

獣に背を向けている綱吉は、そんなことに気付くはずもなく、雲雀の反応を推し量るように琥珀の瞳を壮麗な玉座へ向けていた。
砂漠の王は軽く息を吐いて、手元にある今朝入ったばかりの斥候の報告書に目を落としながら冗談めかした口調で問う。

「一体どんな魔法なのさ」

西方諸島は、この砂漠の国からそう遠くない距離に浮かんでいる島の一つだ。
規模や人口についても、一夜にして攻め落とせるほどのものではなかった。
それなのに、今やあの島々には帰らざる民を象徴する七芒星の黒旗がはためいている。
島々の国民がどうなったか、までは斥候の報告に記載されていなかったが、恐らくは―――。

「魔法でも、呪いでもありません。―――当然の結果、ではないかと」
「まぁ、国民全てが訓練された兵士の国と、千年間ほとんど戦争らしい戦争をしてない国とじゃ、お話にもならないかもね」
「王、貴方はご存知のはずです。西の民に、何があったのかを」

貴方は、ここからあの大陸を監視する王の末裔なのだから。
いつもの気弱な口調ではなく、穏やかで静かな口調で、綱吉は自身が臣下として仕える英雄王の末裔に語りかけた。




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