汝、希求せよ 満月の夜、一族の長は神殿を閉じる「夜のお務め」をするために神殿へ行くのが慣わしだった。 昨年16になった綱吉は、成人したとみなされ一族の長として“傲慢”を担う神殿の「夜のお務め」を任されている。 隼人と共に留守番をしてくれている京子も、来週の誕生日で16歳になるので、来月からは隼人一人で留守番をしなければならない。 今でさえ、行きたいとごねるのだ。 自分が一人で置いていかれるという状況が訪れれば、さらに騒ぐことは明らかで、最近はそのことが真剣に綱吉の頭を悩ませていた。 別に、しきたりだから隼人を神殿へ伴わないのではない。 単純に夜道が危険だから、まだ小さい隼人を連れて行けないのだ。 七氏族には、この大陸に住まう白銀の獣は懐かなかった。 西の民の殆どが、強く賢い白銀の獣を己の半身のように従えているのに反し、西の民を纏める立場にいた七氏族は白銀の獣と契約を交わすことができなかった。 結果として、七氏族は神官職を与えられ、体よく権力の座からはじき出されてしまって、現在に至る。 あの白銀の獣がいれば、その背に乗って険しい道を苦も無く行けただろうが、綱吉たちは徒歩で剥きだしの岩場をいくつも越えなければならない。 神殿の立ち並ぶ丘は、昼ならばまだしも月の光しか光源のない夜に、子どもの足でいけるような場所ではなかった。 『隼人、絶対来月は家から脱走してきそうだよなぁ・・・』 既に歩きなれた道を、満月の光に照らされながら歩く。 所どころ影になっているために見え難い窪みや、夜露で濡れて滑りやすい岩に足をとられないように歩くのにも、大分なれてきた。 最初の頃は、滑ってあちこちに痣や擦り傷を作って、隼人に泣きそうな顔で心配され、京子に手当てなどで散々世話になった。 やがて、丘のふもとにたどり着くと、その位置からでも月光に照らされて白々と柔らかい光を放っている七神殿が目に入る。 人々の営みを見守るように、正面をこちらに向け緩やかに半円を描く形で並べられた七柱の神々を祭る神殿。 今や、奥の3社しか明かりの灯されていない、忘れられ始めた神々の眠る場所。 丘を登りきり、明かりの灯らぬひっそりと静まり返った神殿の間をすり抜け、最奥の神殿へ真っ直ぐと歩いていく。 恐らく、左手の神殿に叔父がいるはずだが、先に務めを終えてしまおうと声はかけずに自分の仕える神殿の扉をくぐった。 人が訪れなくなって久しい神殿は、長い時を内包した独特の冷たさと静けさを持って、綱吉を迎え入れる。 まず、最奥の祭壇におさめられた御神体である黄色の宝珠に丁寧に礼をして、次に祭壇近くの明かりから消していく。 最後に、神殿の大扉を閉ざせば、それでお務めは終わりだった。 しかしこの日は、神殿内の明かりを消したところで、背筋を凍らすような悪寒を感じて背後を振り返った。 神殿の大柱の影、一切の光拒絶し、濃い闇が蟠って凝り固まった場所に、一人の男が立っている。 人影さえようやく認識できる程度の暗がりでありながら、その男の左右異なる瞳だけは奇妙なくらい煌いていて。 『―――こんばんは、綱吉くん』 『・・・骸、さん。こんな夜更けに、どうしました』 『遅くまでお務めご苦労様です』 カツ、と石畳を鳴らしながら、骸は月光の元にその優美な姿を晒した。 そして、人好きのする柔らかな笑顔を整った口元に浮かべて、統治者の全幅の信頼を受ける青年は典雅に一礼する。 それに礼を返しながら、綱吉の警戒は緩むことなくじっと骸へと向けられていた。 何かが、おかしい。 漠然とした警鐘が、脳内を駆け巡って全身の筋肉を緊張させる。 今、目の前にいる男は、周囲の景色に対してあまりにそぐわない。 存在が、この空間に合っていない。 異質な、何か。 『どうしました、怖い顔をして』 そんな綱吉を見て、骸は愉快そうに笑った。 その笑みは、いつもの人懐こい笑顔ではなく、追い詰めた獲物をいたぶる肉食獣の獰猛なそれで。 今度こそ、綱吉の背筋を氷の礫が撃ちぬいた。 ざっ、と骸から飛びのいて距離を置き、臨戦態勢のまま式典などで見慣れているはずの男の姿を凝視する。 そして、驚愕に瞳を開いた。 なぜ、この男には、影が無い? 満月の光に煌々と照らされる場所にいながら、男の足元には、白い石畳しかない。 あるべき影が、無かった。 『なっ・・・』 『意外と、聡いんですねぇ。普段のダメっぷりは演技ですか?それとも―――』 窮鼠猫を噛む、ということでしょうか。 『がっ』 突然の喉への圧迫と背中を叩きつけられた衝撃で、綱吉の口から空気とも呻きともわからぬ音が漏れた。 歩幅にして15歩は開いていたであろう間隔を一瞬で埋めて、いつの間にか骸の手が綱吉の喉元にかかり、腕一本で神殿の壁に縫いとめられてしまっている。 まったく動きが見えなかった。 そんなことに驚く以前に、ギリギリと締め上げられる気道が、綱吉の思考から冷静さを剥ぎ取っていく。 綱吉の爪が、皮手袋に包まれた骸の手を力の限りに食い込んでいくが、ほとんど抵抗らしい抵抗にならない。 生理的に浮かんだ涙で滲む視界に、苦悶に歪む綱吉の表情を観察している男の紅と蒼の色彩が映り込む。 『ぉ、ま、ぇっ・・・!!』 『不思議なことにね、君だけは、影響を受けていないんです』 意識を失う寸前で留められた腕の力をそのままに、骸は綱吉の目元に滲む涙を舐め上げながらそう囁いた。 『貴方が一番邪魔なのに、貴方だけが無傷だなんて、不思議ですねぇ。七氏族でも、貴方の家系が一番神々と繋がりが深かったとはいえ、貴方のご両親も中々時間はかかりましたが、最後には負けたというのに』 邪魔。 無傷。 神々 父と母。 負けた? ちかちかと光が明滅する思考の中で、綱吉の聴覚は断片的に骸の言葉を拾う。 何だ。 何の話をしている。 『七氏族全てが死に絶えれば、邪魔な神々も二度と戻ってはこれない』 骸の言葉が、だんだんと悦に入った恍惚の声音になり、綱吉など目に入っていないかのような目つきになっていった。 『あなた方を人質にとって神々に舞台を降りてもらってから、もう千年ですか。時は早いものですね。―――今や、英雄王との繋がりは途絶え、七氏族も貴方を残すのみ。・・・彼らに、再起の機会なぞ与えない!』 『ぅあっ』 ぎゅっと骸の瞳孔が細くなるのと同時に、首を締め上げる手に更なる力が加わり、綱吉は自分の頚椎が軋む音を確かに聞いた。 死ぬ。 ここで? 死にたくない、死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない――― 誰か! “―――命を差し出す覚悟があるか” 死の間際で、不意に聞こえた声。 いつかの昔に聞いた、頭に染み入る落ち着いたバリトン。 その声に意識を向けると、唐突に思考が明瞭になった。 先ほどまでの苦しさも、今は感じない。 “問おう、お前に、その覚悟があるか” 気づけば、暗い闇の中に立っていた。 頭上には七色の宝珠が、静かに綱吉を見下ろしている。 その中で最も輝いている―――見慣れた黄色の宝珠が揺らめいて、綱吉の前に人の形を形作った。 黒い髪に黒い瞳、この世のものとは思えないほどに整った顔立ちの青年。 すっと通った鼻筋に、意志の強そうな眉、濃い睫に縁取られた黒い瞳には、傲岸不遜な光が凛とした光を放っている。 その瞳に射抜かれただけで、綱吉は立ちすくんでしまった。 動けない。 逆らえない。 本能が、そう告げている。 “お前に、命を差し出す覚悟はあるか” 先ほどの問いが、青年の薄い唇から紡がれた。 『命を差し出す、覚悟?』 “まぁ、どっちにしろ、このままほっとけばあと数秒で死んでるだろうがな” 唐突に青年の口調が、重々しく威圧的なものから乱暴でくだけたものになった。 それを聞いて、綱吉の記憶が一瞬で8年前の神殿まで遡る。 あの時の―――。 “お前が俺に命を差し出すなら、助けてやらねーこともねーぞ” 『貴方は―――?』 “ダメツナ、毎日顔を突き合わせてるじゃねーか” 飼い主の顔もわからねぇとは、ダメの極みだな。 『リ、ボー・・・ン・・・?』 傲慢を浄化する神が、傲慢の化身のごとき発言をしているのはどうなんだ。 一瞬そんなツッコミが頭をめぐったが、さすがにそれは口にせずに、自身が仕える神の名前だけを紡ぐ。 それを受けて、綱吉の前に立つ美丈夫は端麗な口元に笑みを刷いた。 “ごきげんよう、忠実なる末裔よ” 演技めいた口調でありながら、全く違和感のない台詞をはいて、リボーンは言葉を続ける。 “もしもお前が、その身体を俺に―――俺達に差し出すのなら、お前を助けよう。今の俺達には、そちらの世界に直接的に影響を与えることはできない。だが、お前の身体を介してなら、俺達はある程度の力を振るうことができる。・・・これはお前の死期の二者択一だ。今死ぬか、いずれ死ぬかの” 『何の、話を・・・?』 “―――要するに” 俺のものになっちまえってことだ。 そう言って、リボーンは綱吉に口付ける。 意識が急速にブラックアウトしていく中で、綱吉は間近にある最高級の芸術品のような美貌と、その向こう―――闇色の天からこちらを監視するように見ている禍々しい眼を見た。 ひゅっ。 『ぐっ、あっゲホ、ゲホゲホっ』 いきなり気道に侵入してきた空気にむせながら、綱吉は自分がどこにいるのかを一瞬認知できなかった。 体温の低下した手足は感覚が鈍麻で、酩酊状態にある脳は、かろうじて自分が地面に倒れていることだけを伝えてくる。 『なるほど、さすがは最高位の神、と言ったところでしょうか。僕の―――世界の眼を掻い潜るとは。けれど、人型どころかしゃべることすら儘ならないとは、随分と哀れなものですね』 口惜しさと嘲りの混じった声が、霞む意識に毒のように霧散した。 それをきっかけに視界の霞が徐々に薄れ、憎憎しげに顔を歪めた骸と、綱吉を庇うように立ちふさがった大きな黒い獣の後姿が見える。 『貴方が僕を殺せないように、僕も貴方を殺すことはできない―――けれど、彼になら』 ゆらりと、第三者の影が神殿に差し込む月光の元に現れた。 意識の回復した綱吉が、そちらを見て驚きのあまり立ち上がる。 『叔父さん!?』 Next Back |