世界が滅亡しても
べつに僕はかまわないのです
生きつづけようとするのも
貪欲の一種でしょう?―――谷川俊太郎「メランコリーの川下り」より



End Of The World.



その囚人は、不思議な囚人だった。


国一番の堅牢な牢獄の、もっとも警備の厳しい最下層の囚人。
2年前にここに来た彼が、どれだけの凶悪な罪を犯したのかは知れないが、少なくとも、もう二度と日の光を拝むことは叶わないのだろう。

この牢獄にいる人間の殆どは、彼と同じように日の目を見ることは出来ないが。

だから、それ自体が不思議なのではない。

その囚人を、不思議な囚人たらしめているのは、その顔に被せられた道化師の面だった。

中世の時代に流行った、お喋り女の面のような、サーカスのピエロのような、鉄製の面。
ほっそりとした首や体つきには、あの顔全体を覆う面はさぞかし重いことだろう。

自分は長くここの看守を務めているが、彼の素顔を見たことはない。

彼の食事も、洗面も、全て国の上級仕官が行うからだ。
普通の囚人ならば、その部屋に食事のプレートを入れ、濡れタオルを鉄柵越しに渡すのだが。

彼の場合、食事や洗面の時間になると士官に付き添われて部屋から出され、看守である自分さえも知らされていない何処かに連れて行かれ、3時間ほどで帰ってくる。
この監獄は日に2度の食事の時間があるから、あの囚人は、日に6時間はこの牢獄から姿を消すのだ。

一体、彼は何者なのか。

牢獄にいる間、彼は喋りもしなければ動きもしない。
上からきつく詮索無用と言い渡されているから、こちらから彼に何かを尋ねることも出来ない。

彼は、一体何者なのか。

この国で革命が起きた2年前に収監されたのだから、思想的危険因子をはらんだ囚人なのだろうか。

それにしては、大人しすぎると思うのだが。






少年が、白亜の回廊を駆け上がっていく。
色素の薄い柔らかそうな髪の毛がふわふわと揺れ、弾んだ息はどこか楽しげで。

回廊を上りきった先にある、見晴らしの良いテラスに、黒を基調とした軍服に身を包んだ青年が景色を眺めながら立っていた。
漆黒の髪が風に吹かれ、夕陽がその男の白皙の美貌を優しく照らしている。

一枚の完成された絵画のような風景に、少年はしばらく見惚れた後、青年の名を呼んで駆け寄った。

『リボーン!』
『・・・ツナ』

自分の腰に腕を回して抱きついてきた少年の名を呼び返して、青年は胸の辺りにある頭を撫でた。
少年は、すぐに胸に埋めていた顔を上げて、青年へと無邪気で柔らかな微笑みを浮かべる。

『お帰りリボーン!!』
『ああ』
『凄いね!こんなに早く帰ってこれるなんて!!』
『まぁな、あっちも雑魚だったし』


リボーンと呼ばれた青年は、この国の軍隊の総指揮を任されていた。

そして彼は、国境を越えて進軍してきた他国の3万を超す軍勢を、たった2日で国境の外まで押し出したのだ。
普通なら、あれほど広範囲に展開して布陣した軍勢を退却させるのに、5日はかかっただろう。

それを2日で片付けるほどの能力を持っているから、リボーンは、この国の守護神とまで言われていて。



やがて日が落ちて、風が冷たくなってきたからとテラスからツナの部屋へと移動して、机に積み上がっている白紙の問題の束を見て、リボーンの端正な顔に静かに怒気が浮かぶ。
それを察して、ツナがこっそりと踵を返そうとしたが、鍛え抜かれたしなやかな腕にそれを阻まれた。

『―――アレは、俺の見間違いか、ツナ。・・・遠征の間に、出しといた宿題が終わってねぇってのはどーいうことだ?あぁ?』
『い、いたたたたっ痛い、ひたいひょ!!のひるーーー!!!』

にっこりと、美しい微笑みを浮かべて、リボーンはツナの柔らかい頬を手加減無しに左右に引っ張った。
あっという間に、ツナの琥珀色の瞳に涙が浮かぶ。

そう、リボーンは、この国の皇子であるツナの家庭教師も兼任しているのだ。

『だ、だって!こんなに早く帰ってくるなら、宿題の量がおかしいだろ!!?』
『あぁ?てめー、ダメツナのくせに、俺に喧嘩売ってんのか?』
『ひぃ!だってー!!』
『だってじゃねーぞこのダメツナ!』

そんな不毛な遣り取りが、しばらくツナの、広いけれどもどこかガランとした部屋に響いた。
リボーンが居る時だけ、この部屋は生気を取り戻す―――。






あなたに出会えて、それを幸福だと感じていたのは、俺の独りよがりでしたか。

俺にとってあなたは、宮廷の気が狂いそうなくらい汚泥にまみれた単調な日々から、全てのことを諦めきっていた俺を、救い出してくれた光だったのに。

あなた以外、何も要らなかったのに。

あなたは何を求めていた?


石造りの牢獄に、硬質で規則正しい足音が響いた。

それを聞いた看守が立ち上がって、足音の主に敬礼をした後、恭しく俺の部屋の鍵を渡す。

ああ、そんな時間か。

漠然とそう思いながら、4重の扉を開いて入ってきた軍人を見上げた。
鉄の仮面が、重い。

「出ろ」

“彼“の崇拝者らしいこの軍人の瞳には、小汚い俺が、敬愛する“彼”を貶める売女か何かに見えるらしい。

腕を掴む仕草こそ丁寧だけれど、瞳には嫌悪と憎悪の光がぎらついている。
きっと、“彼”の命令がなければ、俺は、もう何百人という“彼”の崇拝者達によって八つ裂きにされているんだ。

そう思うと、死への憧憬とともに、つくづく“彼”の考えていることが分からないと思う。


俺は、もう、生きていたくなんてないのに。


そんな風に考えている俺を生かすことが、俺への嫌がらせなのかも知れないけれど。

「おい、ぐずぐずするな」

この淫売が。
そう続けられたであろう軍人の言葉は、けれど、堪えるように噛み締められた唇の奥に。

はは、笑えるよな、“彼”に見られて無くても、“彼”の命令には絶対服従なんて。

そうさせるだけのカリスマ性を“彼”が十分に持っていたのは、俺が一番よく知っていた。
だって、“彼”の一番の崇拝者はきっと―――。



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