大空の高みに 『ラル様、そのように固くなられては、せっかくのお可愛らしいお顔が台無しですよ』 くすくすと、暖かな笑い声が耳を優しく通り過ぎていく。 淡い髪の色に透き通るような琥珀色の瞳をした優しい女性は、異国から嫁いできた新しい正妃の張り詰めた心を蕩かすような、甘やかな仕草で少女の黒髪を梳いた。 その、慈しみに満ちた手の暖かさに、少女は俯けていた顔をゆるゆると上げる。 そこには、彼女の祖国に輝く太陽のように、儚くも柔らかな微笑を浮かべる第二王妃が立っていて。 『我が王国へようこそ、ラル様』 少女が嫁いできたために正妃の座を追われた女性は、けれどもただ慈愛だけが込められた眼差しで、不安で所在無さげに瞳を揺らす新しい正妃を見て微笑んだ。 「ツ、ナ様―――」 自分の呟きで目が覚めた。 ラルは、見飽きるほどに見慣れた天井をぼんやりと見上げながら、ゆっくりとため息をつく。 すでに侍女が部屋の窓と言う窓のカーテンを開けていたので、広々とした皇后の部屋には朝の眩い光が差し込んでいる。 随分と久しぶりに、笑っている彼女の夢を見た。 そんなことを思いながら身を起こし、ぐっと体を伸ばした。 彼女がこの国に嫁いできたのは、今から120年前の春のこと。 大陸でも指折りの大国である、この国とラルの祖国が、両国の国王と皇女の結婚をもって同盟を結んだからである。 その時既に、王国の国王 リボーンには正妃があったが、その正妃の故国は小国であったために、ラルが新しく正妃の座につくことになった。 見たこともない他国に嫁ぐと言うだけで心細いと言うのに、その上、もともとの正妃を押しのけて自分がその座に着く、という事態に、さすがに鼻白んだことを今でも覚えている。 けれど、婚礼の儀を終え、身を硬くして第二王妃に初めて目通りをしたときの、第二王妃のすべてを包み込み許容するかのような暖かさの方が印象的だった。 大国の妃とは思えぬ質素な服装に、一瞬自分へのあてつけかとも思ったが、正妃であった頃からあまり華美な服装は好まなかったのだと聞いて、とても親しみを覚えたものだ。 異国に嫁いできたラルを気遣い、色々な所で手を差し伸べてくれた第二王妃 ツナ。 だが、彼女はもういない。 彼女と同じような、優しい太陽の光が降り注ぐ春の日に、死んでしまった。 ラルを庇って。 「―――っ!」 一瞬、血だまりに倒れ伏すツナの姿が頭をよぎって、ラルは口元を押さえた。 ああ、あなたは、死ぬ間際、事切れるその時まで、誰かのために微笑んでいましたね。 「俺が死ねばよかったのに・・・」 なんども繰り返したその呟きは、けれども第二王妃の嫡男―――この国の皇太子が言った言葉にかき消される。 『あなたはしっかりいきてください。なんのために、ぼくのははさまがおなくなりになったのか、わからないわけじゃないんでしょ?』 まだ幼い子どもが、まっすぐ涙でぬれた茶褐色の瞳を向けて言った言葉は、ラルの胸の一番深いところに突き刺さったままだ。 「だれかある、着替えるぞ」 「はい、王妃陛下」 ゆるく頭を振って思考を切り替えると、正妃 ラル・ミルチはよく通る声でそう命じた。 「えーっと、この髪飾りは蘭さんのだからー・・・あれ、じゃあヴィアンカさんのは・・・あ、あったあった」 さまざまな衣装が溢れかえる衣裳部屋の片隅で、綱吉はごそごそと今夜使われる装飾品を団員別により分けている最中だった。 それぞれの名前がラベリングされた小瓶に、きらきらと輝くイヤリングやネックレスを絡まないように入れていく。 「ツナ・・・ここか」 「あ、コロネロー楽器の運び出し終わったの?」 「ああ、もう城に向けて出発したぞコラ」 「そっか、じゃあ、ちょっとこれ手伝ってよ。まだ10人分しか仕分けられてないんだけど・・・」 「・・・そういう細かい作業は・・・」 「嫌いなのは知ってるけど、手伝ってくれよ?」 にっこりと笑う綱吉の笑顔に、昔からコロネロは勝てた試しがない。 今回も、いつもと同じように不本意そうに鼻を鳴らしながら、それでもスタスタと綱吉の横まで歩いてきて手近な椅子に腰掛けた。 そして骨張った大きな手を、華奢で繊細な造りの宝飾品へと恐る恐る伸ばす。 「えっとねー、そのピジョンブラッドは、今回はルカさんが使ってー、そっちのスターサファイアを章香さんが使うから」 「お、おう」 「こ、コロネロ、そんなに恐る恐る触らなくても・・・」 自分の指示通りに、尋常でなく顔をこわばらせてイヤリングを選り分けていく兄分を見ながら、綱吉は思わず吹き出した。 「宝石は噛み付かないよ?」 「んなことは知ってんぞコラ」 「あはは、ですよねー」 昔から、コロネロは細かい作業が嫌いだった。 もちろん、やろうと思えばなんだって器用にこなしてしまう人間だったが、細かい作業に関しては頼まれない限り自分からはやらなかった。 それとは逆に、綱吉は細かい作業が好きだった。 年の割りに華奢で、荷物運びなどはできないけれど、その代わり、衣装の繕いや装飾品の修理などはかなりの腕前で、団長にも修理や要らずと褒められるほどである。 暫く黙々と分別作業をしていたけれど、不意に綱吉が沈黙を破って口を開いた。 「昨日さー、街を歩いたじゃん?」 「ん?ああ、そうだなコラ」 「で、思ったんだけど、俺、この街なんか見たことがあるんだよねー」 「・・・そーか?」 弟分の言葉に内心ひやりとしつつ、コロネロはいたって平常どおりの顔でそっけなく返す。 そんな兄分の内心など知らぬまま、綱吉は仕事の手を止めずに話し続けた。 「なんか、よくは分からないんだけど、こう、懐かしいと言うかなんと言うか・・・見覚えがある」 「どっかの街と混同してんじゃねーのかコラ。てめーも俺も、この国に来たのは今回が初めてだろーが」 「だよなぁ・・・?」 何でだろう、と首を傾げる綱吉を視界の隅に収めながら、コロネロは内心で肩をすくめて脱力した。 どうやら自分がこの街に抱いた違和感は勘違いではなかったらしい、という嬉しくもなんともない事態が、一体何を示すのかを考えながら。 綱吉が、宝飾品を仕分けたビンを箱につめて、宿屋の表に待つ馬車に乗せようとしたときだった。 馬の蹄が硬い石畳を荒々しく叩く音が、とんでもない速さで近づいてきているのに綱吉が気づくのと、聞きなれぬ青年が危ないと叫んだのは。 次の瞬間には、力強く誰かに腕を引かれて抱え込まれ、石畳に引き倒された。 そのわずか横を、興奮した様子の馬が駆け抜けていく。 遠くで、誰かが暴れ馬だと叫ぶ声がした。 「うー・・・いたたた・・・」 ごそごそと見知らぬ青年の腕の中で身じろぎをして、綱吉はパッと顔を上げた。 短い黒髪に、切れ長の黒い瞳をした青年が、心配そうに顔を覗き込んできて―――綱吉の顔を見た瞬間驚いたような表情になる。 「ツナ―――?」 「え?」 「ツナ!大丈夫かコラ!?」 初対面の人間に名前を呼ばれて綱吉が首を傾げているうちに、衣装の運び出しをしていたコロネロが、通りの騒ぎを聞きつけて宿屋から飛び出してきた。 そして、青年に腕を引かれて立ち上がろうとしている弟分の姿に、かすかに安堵したような表情になる。 「―――」 金髪を太陽の光に反射させているコロネロの姿を見て、青年が再び驚いたように小さく何かを呟いた。 “コロネロ”と、聞こえたような気がして、綱吉は自分を助けてくれた青年を訝しげに見上げる。 黒い軍服に、上級騎士を表す銀と赤の勲章を胸に下げた、どこか飄々とした青年。 見覚えが、ある気がした。 庶民である自分が、大陸に15人しかいない上級騎士なぞに縁があるとも思えなかったけれど。 とりあえず、助けれもらった礼を言おうと、青年に深々と頭を下げた。 「あの、ありがとうございました」 「え?あ、ああ、怪我はなかったか?」 「はい、おかげさまで。・・・大丈夫だよ、コロネロー!騎士様に助けていただいたから」 「おう」 衣装箱を抱えたまま近づいてくる兄分に手を振って、綱吉は再び騎士へと向き直る。 「騎士様、よろしければお名前をお伺いしても?」 「―――武、山本武だ」 「山本様、本当に助けていただきありがとうございました」 「私の弟を助けていただき、ありがとうございます」 綱吉の横へと歩いてきたコロネロも、常にはない丁寧な仕草と口調で山本に頭を下げた。 そんな二人を、なぜか一瞬だけ複雑そうな瞳で見た後、すぐに山本はにっと上級騎士らしくない親しみやすい笑顔を浮かべてひらひらと手を振った。 「市民を助けるのが騎士の仕事だからなー、そう畏まんなくてもいーぜ」 「は、はぁ・・・」 「・・・」 その騎士らしくない砕けた態度に、綱吉は思わず気の抜けた返事を返して、慌てて自分の口を手で押さえる。 この時代、騎士の気に障れば殺されても文句が言えないのが常識だったからだ。 けれど、山本はそんなことを意に介した風もなく快活に笑って、自分の胸くらいの高さにある綱吉の頭を撫でた。 コロネロが少しだけ面白くなさそうにその光景を見ながら、かすかに眉を顰める。 それに気づいているのかいないのか、山本は相変わらず飄々とした態度で話し続けた。 「お前達、今日宮廷で演奏する楽団の団員か?」 「は、はい―――見習いの身なので、宮廷に参上することはできぬ者ですが・・・」 「そーか、頑張れよ。・・・じゃあ、俺はもう行くから。この辺りは人通りが多くて、馬が興奮しやすい、気をつけろよ」 「はい、ありがとうございました!!」 もう一度深く頭を下げて、綱吉は人ごみにまぎれていく長身の上級騎士を見送った。 「まさか、なぁ」 人ごみの中を歩きながら、国王親衛隊隊長 王国筆頭上級騎士 山本武は珍しく困惑した表情で腕を組んだ。 先ほど助けた少年と、かつて彼が守れなかった幼馴染みの女性の面影が重なって、頭の中に浮かんでは消え、そしてまた浮かんでくる。 「ツナ」 その名を呟くだけで、胸がきしんで張り裂けそうだ。 山本はゆるゆると頭を振って、歩く速度を速める。 幼馴染によく似た小柄な少年と、その横に立っていたかつての親友によく似た面差しの少年、それが何を意味するのかを、意識的に考えないようにして。 Next Back |