大空の高みに


愛していたか、なんて、今更問われても困る。
確かに、一時期は、愛していたと断言できるのだけれど――――。

テラスの策にもたれかかって、いつの間にか大人びた憂いを瞳に浮かべるようになった従妹を見る。
質素なドレスに身を包み、色素の薄い髪を丁寧に纏め肩に流した彼女は、月の光と相まってどこか敬虔な信徒のようで、いつものように鼻で笑うことができなかった。




「・・・コロネロ?」

綱吉は、微かな唸り声が聞こえた気がして目を開いた。
いつもならばこんなに目覚めはよくないし、だいたい、まだ夜も明けていない時間に目を覚ますことなんてほとんどなかった。
けれども、まだ月光以外に光のない時間だというのに、珍しいほど思考はクリアで逆に違和感を覚える。
しばらく考え込んで、綱吉はやっと自分が目覚めるきっかけになった声の方へと視線をよこした。

窓から差し込む月の光が、窓際のベッドで眠るコロネロの鮮やかな金髪をより一層際立たせている。

どうやら、目覚めさせた唸り声は、コロネロのものらしい。
形の綺麗な眉がしかめられた表情から、決して兄分が良い夢をみているのではないことを理解する。
起こそうと思って兄分に手を伸ばしたところで、元々用兵の訓練を受けていた彼が、寝ているときに触られることを好まないのを思い出した。
だから触らずに、ベッドサイドで隣の部屋に聞こえない程度の声で兄分の名を呼ぶ。

「コロネロ、コロネロってば」
「―――ぅ・・・ツ、ナ・・・?」
「うん・・・魘されてたよ。・・・大丈夫??」
「あ、あぁ・・・悪かったなコラ」
「良かった」

やや夢と現実の境目が曖昧な意識を、頭を振ることで現実に近づけながら、コロネロはゆっくりとベッドの上に身を起こした。

「珍しいね、コロネロが魘されるなんて」

どんな夢を見たのと無言で問うてくる綱吉の瞳に、コロネロは肩をすくめることで答える。

「忘れた」
「ふぅん?」

きょとん、と小首をかしげながらもその答えに納得して、綱吉はゆっくりと立ち上がると部屋の扉を開けた。

  「どこ行くんだコラ」
「散歩。目が冴えちゃって」
「・・・俺も行く」
「心配しなくても、屋上に行くだけだって」

コロネロ、今日は楽器運びとかで疲れてるだろ、寝てろよ。
言外について来るなと言いおいて、綱吉は暗い廊下へと出た。




乾燥した夜風が心地よい、宿の屋上。

綱吉は時折、空に近い場所で一人でぼんやりと時を過ごすことがある。
何か考え事をする、というわけではない。
むしろ何も考えていないと言ったほうが正しい。
ただただ、空を見上げてぼんやりとしているだけ。

―――日々の生活の中で、ふとした瞬間に、とても空が懐かしい、と思う。

そんな綱吉を知っているからか、いつも傍にいるコロネロもこの時には傍にいない。

屋上の柵にもたれかかって、綱吉はほとんど無心状態で月の輝くすんだ夜空を見上げていた。

「落ちるぞ」
「・・・へ!?え、うわっ」

―――唐突に声をかけられるまでは。

不意に背後から上がった声に、綱吉は最高に間抜けなリアクションをした。
気の抜けた声を上げて、びくびくしながら振り返ると、そこには、闇に溶け込むようにして青年が悠然と立っている。
上質の(毎日楽団の衣装を見ているので、衣服の素材の良し悪しくらいはわかる)絹で織られた服を纏った、年老いても同い年にも見える不思議な雰囲気を持った黒髪の青年。
先ほどまで確かに綱吉しかいなかった空間に、音も気配もさせずにいつの間にか滑り込んできたらしい。

「間抜け面だな」

驚きで声も出せない綱吉を、その青年は鼻で笑いながら足音をさせずに近づいてくる。

「え、あ、貴方は・・・?」
「さぁ?」

警戒の色もなく不思議そうに見上げてくる少年に、青年は愉快そうに笑った。
切れ長の瞳に形の良い唇、すっと鼻筋の通った、芸術作品のように整った美貌が、笑うことで謎めいた美しさを含む。

「お前、赤ん坊じゃねーんだから初対面のヤツは少しくらい警戒しろ、死ぬぞ」
「初・・・対面」

青年にそう言われて、綱吉はやっと自分と彼が初対面だと言うことに思い至った。
そして、突然現れて驚きはしたけれど、見覚えのない人間への警戒心は微塵も抱かなかった自分に愕然とする。

物騒な世の中だ、そんなことではいつか物取りに殺されてしまう。

自分の言葉に慌てて警戒心を取り繕う綱吉を、青年は本当に愉快そうに眺めていた。

「何か御用ですか、俺なんか殺しても一銭の得にもなりませんよ」
「さぁ?―――殺す気もなければ、危害を加えるつもりもないさ。今日は何をしにきたわけでもない。ただ確認に来ただけだ」
「確認―――?」

意味の分からないことを言われて、きょとんと不思議そうな顔をした綱吉は、次の瞬間頬に口付けられて瞳を大きく見開いた。
一瞬で顔が火照るのが自分でも分かる。

「なななな、なー!!!???」
「はは、お前・・・そんな顔も出来たんだな」

頬を染めて驚きの悲鳴を上げる綱吉の頭を撫でて、青年は少しだけ懐かしそうにそう呟いた。

「え?」
「―――さて、確認もすんだし、俺は帰るぞ。お前も空ばかり見てねーでさっさと寝ろ。・・・空はお前を救わない」

やるだけやって、そして言うだけ言って、青年は完全に空気に乗り遅れた綱吉を置いて現れたときと同じように闇の中に溶け込んだ。
後には、柵にもたれて硬直している綱吉と、静かな月の光だ差し込んでいる夜だけが残される。

「な、なんなんだ、今の・・・夢?あ、これ夢か!」

だよなー、人があんなに唐突に出たり消えたりするわけないよなー!
日常からはあまり考えられない出来事に、綱吉の思考回路は緩やかに現実逃避を始め、屋上から部屋に戻ってベッドにもぐりこむ頃には完全に夢扱いになっていた。




「・・・へ?」
「・・・」

楽団が興行を終えた翌日。
食堂の横のホールに集められた団員達は、嬉々とした様子の楽団長の告げる内容に、各々らしい驚きの反応を返した。

「うんうん、君たちが驚くのも無理はないさ」

そんな団員の反応に満足げに笑って、彼は話を続ける。

「今まで我々は10年以上この国の王宮で演奏してきた。他の国でも我々の楽団の名を知らない者は少ないだろう。―――まぁ、やっと我々の業績が認められたということだね」

恰幅の良い楽団長は、どこか恍惚とした表情で胸を張った。

「昨夜国王陛下からじきじきにお達しがあってね―――我々は、本日付でこの王国の宮廷楽団になったよ」

―――わっとホール全体に反響する歓声が、楽団長の高らかな宣言から一拍ほどしてホールを揺るがした。




「すごいな!俺たちも一緒なんて!」
「・・・―――胡散臭いな」
「え?コロネロ、なんて?」

歓声にわくホールの端で、喜び合う楽団員たちを眺めながら、コロネロは背中を撫ぜる嫌な予感を感じていた。
普通、宮廷楽団に昇格した楽団の見習い達はその時点で追い出される。
それは、団員の補充を教育の段階から育て上げることで行うのではなく、既に職についている音楽家を王国の名の下に雇えるからだ。
だから、今回のように見習い達も一緒に宮廷に召し上げるなんて普通はありえない。

「別に、なんでもねーぞコラ」
「???―――そう?」

素直に現状を喜んでいた綱吉は、腕を組んで壁にもたれかかる兄分を暫く不思議そうに見上げていたが、他の団員に呼ばれて騒ぎの輪の中に加わっていった。
そんな弟分の幼い後姿が、一瞬だけ、いつかどこかで見た覚えのある華奢な少女の後姿と重なって、コロネロは体を壁から起こす。
けれど、やはりそこにいるのは、団員達に絡まれている、困ったようなそれでいてとても楽しそうな少年の姿で。

「―――なんだ?今のは」

白昼夢を見るほど、自分は疲れていないはずなのに。







昔、言えなかった言葉がある。

それは自分の立場やあいつの立場から考えれば、言うべきでない言葉。

だから口をつぐんだ。

だから傍観した。

―――それを悔いたのは、すでにあいつがこの世から消えた後だった。




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