大空の高みに 白い白い空間。 ただただ続いていくだけの、白い空間。 けれども、その白は時折揺らめいて、漆黒の闇に浮かぶ幾千の星の光が瞬く世界や、宝石のように輝く青い球体の星が浮き上がってはまた消えていく。 そんな世界の中心には、さまざまな物が雑多に転がっていた。 白い空間に無造作に置かれた、大きな柱時計に背をもたせ掛けて虚空を見上げていた少年が、不意に大きな、平面に近い銀色の盃の水面を見やって、その整った顔をくしゃりと歪める。 「あぁ、またあの子は・・・!!」 「なに?いきなり耳元で叫ばないでくれる?煩いんだけど」 「耳元って、恭弥くんと僕の間には5mほど距離が開いていますけど!?あいたっちょっと、手近なものを投げないでくださいよ!!」 左右異なる色の瞳に艶やかな黒髪をした少年は、同じく艶やかな黒髪と同じ色の瞳をした少年が投げる鉄の大きな錠前や、豪奢な装丁の施された分厚い本を喚きながらも軽々と避けていった。 けれども、少年の黒い瞳が悪戯っぽく細められ、その白い手に細かな細工の施された歯車を握りこまれたのを見て、もう一人の少年の浮かべる薄ら笑いが凍りつく。 「ちょ、ちょっと!!その歯車は投げないでください!!?そんなことしたら僕も君の柱時計に爪たてますよ!?」 「わぉ、そんなことしたら・・・って、君と同レベルの言い争いをするところだった。で、何なの?」 お互いの手元にお互いの生命線を握り合って、黒い瞳の少年―――恭弥と呼ばれた少年は、軽く溜息をついて目の前の少年を見返した。 その漆黒の視線を受けて、もう一人の少年は肩をすくめて、白い空間に浮かんだ広く薄い銀色の盃を再び見やる。 薄く盃に満ちた水が、ゆらゆらと揺らめいて抜けるような青空と白亜の城下に広がる町並みを映していた。 「あの子ですよ。君もお気に入りだったでしょう?」 「・・・あぁ、君がお気に入りだったあの子ね」 「・・・意地っ張りですねぇ、君も。君がこの幾星霜の年月の中で、誰かを覚えているなんて、お気に入り以外の何だと言うんです」 「ふん、で?」 「え?」 「あの子が、どうしたの?」 手にした歯車を無造作に白い空間において、恭弥も同じように燐光を放つ乳白色の水面を覗き込んだ。 緩やかな音色が、光の溢れる大広間に、人々の歓談を邪魔せぬささやかさで流れている。 大陸でも5指に数えられる楽団の実力は伊達ではない。 晩餐会に出席した誰もが、新しく設立された宮廷楽団の音色に酔いしれ、満足げな笑みを浮かべているのだから。 そんな己の所属する楽団の仕事に聞き惚れながら、綱吉は大きな会場をちょこまかと給仕として動き回っていた。 他の楽団見習い達も、綱吉と同じく宮廷の使用人として晩餐の給仕や警護の手伝いをしている。 ―――それ位しなければ、見習いまで召し上げて貰えた恩に応えたことにはならない。 空になったガラスをトレイに乗せて歩いていると、足首まで覆いそうな毛足の長い絨毯を靴越しに感じ、今自分がいる場所が今までとは全く違う場所なんだと不意に実感する。 煌びやかなホールの内装も、貴族達の上質な正装も、品の良い鼻につかない控えめな香水の香りも、今までの綱吉の生活には縁のないもの。 たとえ楽団見習い兼給仕であっても、大陸有数の栄華を誇る大国の城に仕えているのだと思うと、知らず知らずのうちに背筋が伸びた。 とはいえ、晩餐会を主催する側である王族の姿は会場内にない。 今日の晩餐会では、国王は初めに軽い挨拶をするとすぐに退席してしまい、王妃も国王に従って姿を消し、皇太子はそもそも出席していないのだ。 来賓側もそれに慣れているのか、特に気にも留めずにそれぞれ談笑を楽しんでいる 給仕として慌しく働いていた綱吉は、他の楽団員が聞き惚れ見惚れたという王と王妃の姿かたちを見ることはかなわなかったが、世界中を興行した先輩達の審美眼を疑う気もなく、国王夫妻はたいそうな美形なのだと理解した。 この国の王族は、他国と比べて珍しくこういう贅沢な行事を嫌うたちで、ここ3ヶ月でも、城で開かれた晩餐会はたった2回である。 貴族達もそれに倣ってそれほど奔放な遊びをしない。 だからこの国の王侯貴族たちは、他国の王侯貴族達から遊び方を知らぬ野暮の集まりと揶揄されるのだが、国民達はそんな支配者達を誇りに思っているようだ。 彼らは絶対に国民の血税を無駄にしない、という分かりやすい証明を体現してくれる。 今までに見た国の中では、間違いなく最も国民と支配者の距離が近いところだと、綱吉は思う。 これほど、国民を中心に据えて作られた王による中央集権国家を見たことがない。 「ツナ君、ごめん、公爵夫人のスカーフがテラスから飛んで行ってしまったらしくて・・・探しに行ってもらえる?多分中庭に落ちていると思うんだけど・・・」 ほけーっと、そんな考え事をしながら、客人の合間を縫って空の食器を回収していた綱吉の黒いベストを、同じく楽団見習いで給仕の手伝いをしていた少女の細い指が摘んだ。 はっとしてそちらに向き直れば、すまなそうな顔をした少女が、大きなガラス扉の先に続くテラスを目だけで示す。 大広間から零れる華やかな光のために、夜空に瞬いているであろう星を室内から見ることはできないが、きっちり手入れの行き届いた広い中庭を見下ろすテラスからは、美しい星空と城下町の夜景が見えた。 ―――? 一度も出たことのないテラスから見える風景をリアルに想像できて、そのことに一瞬綱吉は首をひねったが、すぐに思考を切り替えるとにっこり微笑んでうなずいた。 「わかった、俺もう後は片付けだけだから、後よろしく。―――どんなスカーフ?」 「白いレースで縁取りされた空色の絹のスカーフよ。西風に煽られて飛んでいってしまったの」 「公爵夫人はいつお帰りに?」 「もう帰られたわ。見つかり次第お届けするとお約束申し上げたけれど・・・」 「じゃぁさっさと探さなきゃだね、ちょっと行ってくるから、みんなにそう伝えておいて?」 「うん、ごめんね、ありがとう」 「いいよ、もう夜だから。こっちのトレイよろしく」 夜の中庭に侍女が出ることは、防犯上の理由から原則として禁止されている。 酒に惑った客人がどんな場違いな行動も起こさぬよう、また、万が一城内に賊が侵入していた場合の害を被らぬように、そう定められていた。 綱吉は自分の手に乗せられていたトレイを少女に手渡して、なるだけ自分の存在を消して会場を後にする。 そして、当然ながら城の正面階段は使わず、使用人用の小さい階段を駆け下りて、裏口から中庭へと足を踏み出した。 木製の扉を開ければ、虫の音が葉陰から静かに聞こえ、頭上からは人々の談笑する気配や緩やかな音楽が耳に届く。 くるりと見渡すと、丁寧に切り揃えられた芝生に、花壇やレンガ造りの遊歩道、そして中庭中に伸びている遊歩道の終着点―――ちょうどテラスの真下にある噴水が、同じ間隔同じ水量で、たおやかに水を噴き上げていた。 どこかで見たことがある、と一瞬そんな思いが頭をよぎったが、今までこんな所に縁なぞ欠片もなかった綱吉は、ふるふると頭を振って既視感を追い払う。 権力のある場所の中庭なんてどこでも一緒なのだから、記憶が混じっているだけに違いない。 そう思って、スカーフを探すのに集中することにした。 今年は北の国での一揆が相次いでいる。 そろそろ大陸の南にも涼しい風が吹き込んできているのだから、北ではもう冬支度が終わる頃なのだろうに。 スカルの眼前に積み上げられた書類には、遠く北の国での一揆の報告や、大陸全土に分布する各国共有の備蓄倉庫の現状が事細かに記載されていた。 その全てが、今年の冬は厳しいものであろうことを告げている。 南は良い、寒さも厳しくなく、夏に豊富な雨が降ったおかげで食糧の備蓄は十分だ。 東諸国もその恩恵を受けて、冬を乗り切ることは可能だろう。 問題は天候が荒れに荒れている北と、それに足を引っ張られた西の国々。 救援物資の準備と援助団の編成に―――・・・。 つらつらとそこまで考えたところで、スカルは溜息をつくと椅子から立ち上がった。 もうかれこれ6時間は執務机と仲良くしていた体は、筋肉が固まってぎしぎしと軋んだが、筋を伸ばせばすぐに解れていく。 気休めもかねてガラス扉を開けば、中庭を挟んで斜め向かい側の大広間から微かに楽団の音色が流れてきた。 父王の気まぐれで雇われた宮廷楽団だが、腕は確からしく、国内外の来賓からはかなりの好評を得ているらしい。 今まで宮廷行事にそれほど関心のなかった父が雇うほどなのだから、当然といえば当然か。 扉を開け放してテラスへ足を踏み出せば、西から吹く風がゆっくりスカルの髪を撫でていく。 空には星が瞬き、月が静かに大地に光を注いで、柔らかな光が中庭を包んでいた。 よく、母もこうして夜空の下で、中庭を眺めていた。 その膝に抱かれながら聞いた子守唄は、幼いスカルにとってはこの世の何よりも美しく優しい音色で。 おやすみなさい、愛しい子。 そう囁かれて眠る幸せを、幼いながらに感じながら眠りについた。 ―――女々しい。 ことあるごとに過去に行きがちな自分の思考回路をそう断じて、スカルはふるりと頭をふると中庭を見下ろした。 すると、月光が作り出した木々の淡い陰影に混じって、ちょこまかと何かを探すように動き回る小さな人影が目に留まった。 晩餐会の来賓が来るにしては、随分と大広間から離れた場所である。 だが、賊にしては動きが無防備で、周囲に注意を払っている様子もない。 楽団見習いの子供か―――? 宮廷楽団として召し上げたときに、その楽団の見習いたちまで一緒だったため、幾人かの子どもが城に出入りするようになったことは知っていた。 けれども、彼らは公的機関である「前城」だけにしか出入りしないので、王族の私的な空間である「後城」に住まうスカルは全く面識がない。 来賓の落し物探しに夢中になって、こんな所まで来てしまったのだろうと判断し、スカルは、ちょうど自分の部屋の真下までキョロキョロとしながら歩いてきた子どもに声をかけた。 「お前、こんな所まで来て、何を探しているんだ?」 暗闇の中、突然上から降ってきた声に驚いたらしく、子どもは給仕の制服に包まれた華奢な体をこれ以上ないほど強張らせて、勢いよくスカルのほうへ顔を上げた。 大きな琥珀色の瞳と、切れ長の焦げ茶色の瞳が、月明かりの中で交差する―――。 Next Back |