大空の高みに


『私は貴方の妻です。それだけは、どうぞお忘れなきよう』

月の光と星の瞬きが降り注ぐテラスに、凛とした声が響いた。
見惚れんばかりに整った造形をした男は、そう言い放った自身の妻を無感動に一瞬眺めてから、再びふいっとその視線を夜空へと上げる。

“私は、私の意志で、貴方の妻になったのです。”

女性の唇は、そう言葉を紡ぐために一瞬開かれて―――何かを諦めるように声を発することなく閉ざされた。

初めから分かっていた、こうなることは。

何度も何度も胸中で繰り返してきた、自分を納得させるための詭弁を心に刻んで、夫と呼ぶべき男性と同じように空を見上げる。
頭上に遠大に広がる、彼女の祖国が崇める「世界の“導(しるべ)”」を刻む聖地は、月と星の光を鮮やかに際立たせるほどに深遠な闇を孕んで―――彼女が死した後もそこに在ることを無言で物語っていた。
星の民の言葉は、きっと彼に届かない。


「―――違うっ!」
「何がだコラ」
「・・・って、あぇ?」

綱吉は、コロネロの声を知覚して始めて、自分が2段ベッドの上段で眠っていたことを思い出した。
寝惚けた視界に、古ぼけた板張りの天井と真っ直ぐに伸ばされた自分の手が映る。

「夢・・・?」
「でっかい寝言だなコラ。さっさと起きろ、そろそろ朝メシの時間だぞ」

ゆっくりと体を起こせば、汲み置きの水で洗顔を済ませた兄分の呆れたような顔が綱吉の方に向けられていた。
既に身支度を整えていたコロネロの言葉に、一気に意識が覚醒する。

「ぇ・・・え!?い゛だっ」
「はぁ・・・」

慌てるあまりに立ち上がり、天井で頭を打って悶絶する弟分の間抜けな姿に、コロネロは朝から思い溜息をつかざるを得なかった。




がやがやとにぎわう使用人食堂の片隅で、華奢な体には少々不釣合いな大量の朝食を詰め込みながら、綱吉はちらりと、落ち着かない様子で自分の兄分である少年を見遣る。
けれどすぐに、カーキ色の軍服を着たコロネロの空色の瞳がどうしたとでも言いたげに向けられて、大きな瞳は再び朝食のある手元に下げられる。

城の騎士や衛兵達にその腕を気に入られたために、コロネロはもっぱら城内の警備の仕事をしていた。
だから他の使用人たちのような服装ではなく下士官と同じ軍服を着ているのだが、如何せん“使用人”食堂ではその格好は目立ちすぎた。
しかも、それを纏うコロネロの顔がなまじ整っているために、人々の視線は否が応にも金髪碧眼の少年へと向けられてしまう。

コロネロって、昔からこういうの無頓着だもんなぁ・・・。

自分の容姿がいかに常人離れしている美貌なのか、を知らぬ兄分のせいで、綱吉はしばしば周囲から向けられる視線に辟易していた。
綱吉にしてみれば、コロネロへと向けられる視線が悪意のあるものであれ、憧れや恋情を含んだものであれ、直接的に自分に関係ない大量の視線のただ中にいるのはたいそう居心地が悪い。

「ツナ、手が止まってるぞコラ。もういいのか?」
「え?ああ、まだ食べるよ!」
「ならさっさと手を動かせ。もうすぐ始まるぞコラ」
「わかってるって」

人の気配や敵意には敏感なくせに、どうしてこれほどまでにあからさまに向けられている視線には気付かないんだ、などと内心で愚痴りながら、皿に残ったプチトマトをフォークで突き刺して口に放り込んだ。
そう言えば、あの皇太子殿下も多分このタイプの人間だよな。

そう思って、綱吉は昨夜出会ったこの国の次期国王の姿を思い出した。




綱吉は、昨夜中庭でパーティの来賓のスカーフを探していた。 そして、何も考えずただ闇雲に中庭を探しているうちに、立ち入り禁止区域である後城側の中庭にまで入ってしまったのである。
それに気付いたのは、後城のテラスに顔を出した短髪の青年に声をかけられてからのことだったけれど。

その青年は、煌びやかと言うよりは実直な端整さを持った人物で、月の光に照らされた瞳が驚いたように綱吉へと向けられていた。

それはそうだろう。
本来ならば立ち入ることなど許されぬ、侍女どころか使用人ですらない楽団見習いの子どもが、王族しか住まぬ後城の中庭に立っていたのだから。
綱吉は、驚き言葉もない青年の様子をそう解釈して、慌ててその場に平伏した。
夜露に濡れた芝生の上に膝をついたために、じんわりとした冷たさが服に染みこんできたが、そんなことを気にしている場合ではない。

生まれ故郷でなくとも、いずこかの王国にいる限り、その国の王族の前では絶対服従。
世界各国を巡業する楽団に入団する以上、その掟は何よりも重要なこととして教え込まれるために、王国の生まれでなくとも何の抵抗もなく膝を折って頭をたれることが出来た。
それを見て、テラスに出てきた青年がどこか居たたまれないような表情で言葉をかけてくる。

『・・・お前は、楽団見習いの子どもか?』
『はい・・・規則を破り、後城の中庭を汚したてまつりし無礼、申し開きのしようもございません。処分は如何様にも受ける所存にございます』

すらすらと出てくる言葉に比例して、綱吉の動転した思考も段々と落ち着きを取り戻してくる。
後城に住むことが許されているのは、国王、王妃、皇太子、国王の甥にあたる国務尚書の4名で、後城に足を踏み入れることを許された使用人たちは全て女性だ。
ということは、この青年は国王か皇太子か国務尚書ということになる。
そして、楽団員達の話によれば、国王は黒曜石のように艶やかで硬質な黒髪で、国務尚書は目も覚めんばかりに鮮やかな金髪をしているらしい。
そこから導き出される答えは、今、テラスからこちらを品定めするように見下ろしている青年が、この王国の皇太子であるということ。

優れた知略によって王国の外交総括長官と軍部統合作戦参謀長とを任され、大陸の人々から敬意を持って“智の皇太子”と呼ばれる、王国唯一の王位継承者スカル第一皇子。
今は亡き第二王妃の忘れ形見で、国民からの人望も厚い、有能な人物だと聞いていた。

知りえるパーソナルデータの全てを頭にはじき出して、自分が死ぬか、城から排斥されるか、それとも許されるかの確率を考える。
けれど、その計算が終わる前に、複雑そうな声音で紡がれた言葉が綱吉の耳に届いた。

『いや、そんなことは気にしなくても良い。あの禁則事項は、それほど意味のあるものじゃないから』

ただ、我が家は人嫌いが多いから、あまり周囲に人を近づけたくないだけなんだ。

この国で国王に次いで権力を持つ皇太子が、何故綱吉のような子ども相手に、弱った、とでも言いたげな声で答えるのか。
綱吉は少しだけそれを訝しく思いながらも、更に深々と頭を下げて感謝の意を表した。

『そ、そんなに頭を下げるな。とりあえず立て、夜露で濡れるだろう』

不思議なことを言う王族もいるものだ。
たいていの王国の王族―――いや、その下の貴族でさえ、平民なぞ周囲の草も同じ、という態度をとるのが普通だというのに。
そんなことを考えながら、綱吉は皇太子の言葉に従って立ち上がった。
けれど、その大きな琥珀の瞳は、王族の顔を直視するなどと言う無礼な行動はせずに地面に伏せられたままである。

『顔を上げてくれ』

次いで告げられた命令形ではなく、願うような言葉に、再び妙な違和感を覚えながら、ゆっくりと顔を上げて月光に照らされる青年を見上げた。

焦げ茶色の髪に同色の瞳、生真面目な印象を与える眉に、引き結ばれた形の綺麗な薄い唇―――その全てに一瞬だけ既視感を覚えて、綱吉は瞬きをした。

当たり前だが、見覚えはない。
大国の皇太子にお目通りをしたことなど一度もないのだから、当然である。
けれど確かに―――確かに、初対面ではない気がした。




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