05 知らない横顔


『綱吉、苛められたの?』
『うぅん、なんでもないよ!』
『―――そう』

夕日に照らされた部屋の中、ガーゼを貼った頬をゆっくり辿る細い指。

外ではカナカナゼミが夏の終わりを告げており、カーテンを揺らす生温い風は少年達の柔らかな髪を撫ぜるように揺らす。
膝を抱える少年の両肩に手を置いて、学生服を着た少年はその顔を鼻先が触れ合うほどに近づけた。

『痛そうだね』
『―――ぅん、ちょっと・・・痛い』
『可哀想に』

濡れた黒曜石のような瞳を眇めて、少年はまだ幼い輪郭をもう一度指で辿るとふわりと離れる。
そしてそのまま優雅な身のこなしで立ち上がると、床に座り込む幼馴染みの色素の薄い髪を撫ぜて、彼は部屋を出て行った。

『きょー・・・ちゃん・・・?』

部屋に残された少年が知らぬ、酷く冷たい横顔だけを残して。




「えぇっと、だから、お金なんてないですって・・・」
「あぁ!?あんだって!?」
「ひ、ひぃぃっ」

新学期早々、なんで俺はカツアゲされているんだろう。
人影まばらな昼間の公園の男子トイレで、周りを強面の男達に囲まれながら、綱吉は学校鞄を抱えて半泣き状態だった。

今日は始業式だったため、鞄の中身は配布されたプリントと筆箱と財布しか入っていない。
しかも午前放課だったので昼食を買う必要も無く、バス通学でも電車通学でもない綱吉の財布の中身など、財布自体の値段に負けている。
―――言うまでもなく、カツアゲをしている人間達の期待に添えられるだけの金額など入っていない(もちろん期待に添う気もないが)。

「ったく、ごちゃごちゃ言ってねぇでさっさと出すもの出しやがれ!!」
「ぅぐっ」

わたわたと挙動不審ながら鞄を絶対に離そうとしない綱吉に、取り囲んでいた不良の一人が痺れを切らせて拳を上げた。
その拳をまともに左頬に受けて、狭い公衆トイレの中で満足な受身も取れないまま壁に叩きつけられる。
そしてそのままズルズルと床に座り込みそうになるのを、必死の思いで踏みとどまった。

汚い。
公園の公衆トイレなんて、出来れば入りたくさえない場所だ。
そんな場所の床になんぞ座り込めるか。

その思いだけが、綱吉のわななく足を踏ん張らせる。
けれども、不良たちにはその態度が生意気に映ったらしく、再び拳が振り上げられた。

「―――っ」

今度殴られたら、絶対にトイレの床に転がる。
痛いとか怖いとかいった感情の前に“汚い”と思う辺り、綱吉の神経は本人が思うよりも図太いらしい。
だが、予想する衝撃は、反射的に目をつぶってから数秒たっても訪れることはなかった。

その代わり―――。

「ねぇ、“公衆”の場所で群れないでくれる?」

平坦で、それでいて凛としたよく通る声。

「目障りなんだけど」
「ひ、雲雀!?・・・並盛の風紀委員の!!」
「草食動物に呼び捨てにされる謂れは無いね」

その言葉とともにバキッと肉と骨を金属で殴る音がして、一人がトイレの床に倒れ込んだ。
それを見た他の人間達は、一気に自分達が狩られる側に回ったことを理解して蒼白になったが、逃げることもできずに立ちすくむ。
この場所から逃げ出す唯一の出入り口に、彼らを恐れさせる原因が爛々と目を輝かせて立っているのだから、逃げる術もないが。

綱吉は、出入り口に悠然とたたずむ雲雀の姿に、緊張でからからに乾いた口から言葉を紡ぐ。

「ひ、ばり、さ・・・」
「へぇ、まだ立ってるんだ?」
「え、ぇ、まあ・・・なんと、いうか・・・意地で」
「―――そう」

トイレの中で不良たちに囲まれて、壁に背中を凭れさせて体を支えている綱吉に一瞬目を走らせて、雲雀は獰猛な光を宿した瞳を眇めた。

「痛そうだね」
「ちょっと、痛い、です」
「そう―――可哀想にね」
「え・・・?」

ドガッ

雲雀が微かに目を伏せて小さく何か言った。
それを聞き取れずに、綱吉が口を開いたのと、雲雀の手に収まっていたトンファーが雲雀の近くにいた不良の顔面にめり込んだのは殆ど同時だった。
そして、しばらくの間、狭い公衆トイレの中には打撃音と悲鳴だけが響く。

やがて、その音が苦痛のうめき声に変化した頃、綱吉はきつく閉じていた瞳を開けた。
頬を伝い落ちる生暖かい液体が、涙で無いとするならば、飛び散った誰かの血なのだろうと、頭の片隅の奇妙に冷静な一部が教えてくれる。

カナカナゼミが鳴いている。
夕日が差し込むトイレには、昼の日光に暖められた風は吹き込まない。
逆光で、かすかに顎を引いた雲雀の表情は、いつも以上に冷たく見えた。

いつか見た光景に、胸が軋む。

「ひばり、さん」
「何?」
「痛い、です」

そうとだけ呟いて、綱吉は意識を手放した。
失神の原因が、濃厚な血の匂いに当てられたからなのか、極度の緊張状態から開放されたからなのか、それは綱吉自身にも分からない。
トイレの床は不良たちで埋まっているので、床との直接の接触は免れるだろう。

そんなことを、遠のく意識の中で考えていた。




「トイレに倒れるなんて、汚いよ」

無意識に抱き留めてしまった華奢な体を支えながら、雲雀は誰に言うでもなくそう言うと、後には興味が無いとばかりにくるりと踵を返す。

後には、床に転がる幾人かの人影だけが残され、その殆どが意識を失っていたため、静寂に包まれていた。
トイレから血まみれの腕がのぞいているのを、買い物帰りの主婦が発見するまで。




殴られた痛み。
知らない横顔。

どちらがよりこの胸を苛んだのか、なんて―――ねぇ?

そんな表情なんて、知らない。




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