綻び 鐘が鳴る 祈りの鐘が鳴る 慟哭の鐘が鳴る 名のある骨董品や美術品が等間隔で続く豪奢な廊下を歩きながら、灰色の髪をした青年はゆっくりとため息をついた。 天井まである大きさの、防弾ガラスがはめ込まれた窓からは、春の日差しが降り注ぐ中庭が見える。 生命の季節を謳歌する木々や花々は眩しいほどに咲き誇り、彫刻が刻まれた噴水から吹き上がる水は陽光を浴びて煌めいていた。 己の主が失い始めている生命の息吹を具現化したようなその光景に、いつしか男の歩みは止まっている。 「邪魔だよ」 そんな青年に、心底邪魔そうな声がかけられた。 見れば、青年が歩いてきた方向とは逆の方向から、黒髪の青年が歩いてきていた。 鋭い漆黒の瞳に睨(ね)め付けられても、特に怯むことなく窓際の青年はその視線を受け止める。 どちらも剣呑な光を瞳に宿し、殺気の籠もった視線を交わすが、直ぐにどうでも良さそうに黒髪の青年が瞳をそらした。 煌めく中庭に視線を送りながら、黒髪の青年が独語する。 「もう春か。綱吉の好きな季節になったね」 「・・・まあな」 「長期海外出張の仕事ばかり受けるから、てっきり臆病風に吹かれて顔を出せないのかと思っていたんだけど。腹を括ったみたいだね」 「・・・」 「ま、どっちでもいいけど。さっさと行きなよ。綱吉が待ってる」 「言われなくても行く」 お互いに、極めて非友好的な視線を交わし、廊下をすれ違う。 この廊下をまっすぐ行けば、彼が神にも等しく思っている主人の私室がある。 その部屋までの道のりの、なんと遠く絶望に満ちたことか。 やがて瞳を開き、青年は歩み始めた。 そして、イタリアの中でも屈指の豪邸の、最も厳重に守られた最奥の部屋の前で、青年はその足を止める。 部屋の重厚な樫木の扉は、何百年という年月を経て、深みを帯びた飴色をしている。 この屋敷は、かつてナポリ王国の王室別邸として建てられた物で、家具や壁や柱に至るまで手の込んだ装飾が為されていた。 現在此処に住まう人間達は、そんなものに無頓着であるから特に何の興味も示さないが、椅子一脚で何千万の価値がある。 静かに分厚い扉をノックすれば、部屋の中から微かに鈴の音が聞こえ、それを確認して青年は部屋へと足を踏み入れた。 書斎は無人で、その横の寝室の扉が僅かに開いているのが見える。 そちらへと歩み寄り、彼の主人がいるであろう部屋へと静かに入った。 「失礼します、十代目。獄寺隼人、ただいまルクセンブルクより帰還しました」 「うん、おかえり隼人。ご苦労様」 キングサイズのベットに横たわる青年が、入ってきた自身の右腕に向けて穏やかなねぎらいの言葉をかけた。 主人の部屋に相応しい簡素ながら贅の尽くされたきらびやかな内装の部屋にとけ込む、主人の柔和で厳かな雰囲気は、病床にあっても変わらない。 その事実に少し安堵しながら、獄寺はベットサイドへ足を進めた。 23歳で世界中のマフィアを額ずかせ、裏の社会の帝王に上り詰めた、ドン・ボンゴレ。 今やその名を恐れぬ者はなく、生きた伝説と称されるほどの権力とカリスマ性を備えた彼は、ごく親しい人間の前でのみ、日本にいた頃のような無邪気な笑顔を見せる。 ひとたび抗争が起これば先陣を切って人を殺めるその冷酷なまでの雄姿とは裏腹に、普段の綱吉は海の凪のように優しく穏やかだ。 18歳でイタリアに渡り、かれこれ10年になるというのに、未だに綱吉はどこかあどけない。 もちろん、ボスとしても人としても、極めて希な才能や資質などを持っているが。 殆どのマフィアのボスが持ち得ない、日向のような暖かさを感じる。 それがきっと、人心を掴んで放さない綱吉の人徳なのだろう。 「ロシアとの取引を飲んでくれました。この取引で東欧は暫く安定するかと」 「そう、ありがとう。やっぱり隼人に任せて良かったよ、君が取引交渉は一番上手いからね」 「十代目のお役に立てて良かったです。お加減はいかがですか」 「今日はだいぶん良いよ、といっても、シャマルが起きるのを許してくれないんだけれど」 「無理はしないで下さい。今はイタリアも静かですし・・・」 腹心である右腕の言葉に、綱吉は静かに口の端をつり上げた。 いつもの彼の微笑みではなく、マフィアの王、ドン・ボンゴレの笑みであった。 それを見て、綱吉絡み以外はすこぶる有能な獄寺の眉が寄る。 「何か、ありましたか?」 「隼人、オレがボンゴレの麻薬シンジケートの閉鎖を決めてから何年位になるかな」 「・・・8年です」 「そうだね、長くも短くもない年月だ。だけど、結構閉鎖には成功していたんだよね」 「はい、十代目の尽力の賜かと」 「みんなの協力のおかげだよ。・・・ただ、どうやら最近その閉鎖令がほころび始めたらしいんだよね」 「ほころび・・・ボンゴレ名義での取引が?」 「いや、さすがにそんなことがあったら、隼人に耳にだって届いているさ。ウチの、南アフリカ近辺のテリトリーで何件か密売が検挙されているんだ。どれも小規模で、街の悪ガキの火遊び程度なんだけど。みんな口をそろえて面白いことをいうんだよ」 そこですっと、綱吉の瞳がすがめられた。 「“porta celeste”」 「・・・“天国の扉”ですか」 かつてダメツナと呼ばれていた頃からは想像も出来ない、綱吉の流暢なイタリア語を聞き、獄寺は訝しげにそう呟いた。 「聞き覚えがある?」 「いいえ、新種の麻薬ですか」 「さあ、事情聴取の記録を見る限り、麻薬自体を指す言葉ではないらしいね」 「十代目、またご自分で調べたんですか」 そう言うことは、命じてくれれば部下がやるのにとあからさまに顔に書いた右腕を見ながら、綱吉はくすくすと笑い、いいじゃない、と話を続けた。 「たぶん、新しい麻薬の原料か何かがある場所のことなんだろうね。記録に寄れば、その“天国の扉”を開くのに必要なものが“speranza“なんだそうだよ。意味深だよね、天国に必要なのが希望だなんて」 「・・・」 「薬物中毒者の妄言か、何かの暗示か、まあ、今のところ何とも言えないけどね」 イタリアに来た当初よりも随分と細くなった肩をすくめ、綱吉は久しぶりに姿を見せた右腕を見やる。 この頭脳明晰なくせに馬鹿がつくほど忠実な右腕は、綱吉が病に倒れてから殆ど綱吉に会いに来ていない。 指令は全て電話かメールだったし、報告も又しかりで、そのあまりの「らしさ」に苦笑さえ漏れた。 獄寺は忠実だからこそ、日に日に弱っていく綱吉に何もしてやれないことが悔しく、また、大切な主人を何も出来ずに失うことが恐ろしくて、立ち竦んでしまったと言うことは綱吉もよく理解している。 そう、綱吉は病に冒されている。 原因も治療法も分かっていない不治の病に。 身体の内側から、内臓などの細胞が段々と壊死していくという奇病。 最近では、一日の大半をベットの上で過ごしていた。 「気になるから、一応、今ハルに調べて貰っているよ。・・・山本はどうしている?」 「今は・・・たしかL.A.にいるはずですが・・・それがどうかさないましたか」 「いや、管理テリトリー近辺での検挙騒動があったのに、その割には静かだと思って。最近顔も見ないしね」 「今頃出所調べに明け暮れているんじゃないでしょうか。まあ、南アに麻薬を流すとしたら南米当たりが一番怪しいですし。それに、あいつがなかなか帰ってこないのはいつものことです」 「山本は糸の切れたタコみたいだからなあ」 「そうっすね、次帰ってきたら、このタコっと言っておきます」 「・・・なんか伝わるニュアンスが違う気がするよ、ソレ」 そう言って屈託なく笑った後、綱吉はつかれたように瞳を閉じ、やがて静かな寝息を立て始めた。 それを確認して、獄寺は一礼すると部屋を辞した。 そして足早に、ボンゴレきってのハッカーの元へと向かう。 その表情が強張っていることを、誰にも見とがめられないように。 青年は息を吸い、慟哭を押し殺すかのように瞑目した。 Next Back |